2016年3月9日水曜日

少年法で裁く限界点

少なくとも民事裁判では、いわゆる「応報」的な考え方は法律専門家の間では否定的に考えられています。民事責任のレベルについては、加害者は被害者に対して、その損害に応じた程度の賠償をすれば足り、それ以上を強いることは酷であるし、正当でもないとされています。

従って責任が甘くて済んだときも、これで責任は果たしましたと言いながら、本当に責任を果たしたのか疑問なケ-スがあまりにも多い。それが最近の司法に接していて感じることです。

そして、責任を取らなければならない側は、「甘い責任」を狙って、頭は下げるわ土下座はするわ、ということになりますが、それはあくまでも「責任逃れのため」という目的がいかにも見え透いているために、どうも釈然としないということになります。

「謝ったから責任を軽くしてやろう」というのも一つの理屈ではありますが、欺隔的な謝罪を清算してからでないと、結局は感情に流されてしまって元の木阿弥です。権利や正義が実現できなかった人は、法や裁判に失望します。逆に、それでうまいことやれた人々には、「なかなかうまい制度になってるんだな」と思わせることになります。

少年に妻子を殺された被害者と、少年法で社会復帰できた殺人者が、それぞれそんなことを感じるようなことがないよう祈るばかりですが、これは何も少年法の分野ばかりではありません。他にも「社会悪」というべきものが沢山あります。それらに立ち向かっていくための制度や手続を考えるべきではないでしょうか。