2013年11月5日火曜日

南ブータンの移民問題

国王譲位という誰一人望んでいなかった事態は、「はじめに」で述べたように、誰の予測よりも早く二〇〇六年二月一四日に、またしても何らの予告もなく訪れた。三四年に及んだ治世の、あっけないまでに簡略な終焉であった。三日後二月一七日の建国記念日に、二六歳の新国王は首都ティンプのチャンリミタン広場で初演説をし、第五代国王の治世が始まり、戴冠式は二〇〇八年に予定されている。国王が推し進めた民主化は、国内外でもよく知られ、評価されているが、あまり知られていないのが国家の安全という面での国王の貢献である。しかしこれは、第四代国王が一九七二年の即位以来、ひそかに心がけてきたことであり、その先見性、政治手腕をもっとも雄弁に立証するものである。

まず第一に、南ブータンのネパール系住民で不パール人移民の問題である。一九八〇年代末期に顕在化したこの問題は、一時国際メディアでも取り上げられ、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)も難民問題と認定し、現在でもネパール東部に八万人ほどの「難民」キャンプがある。しかし、この問題に関する限り、国際世論の視点はあまりにも一面的であり、本質を見逃していると思われる。そもそもブータン南部はうっそうとした無人のジャングル地帯であった。そこに一九世紀後半からネパール人が移り住み、開墾し始めた。こうした移住農民の中には、ブータンに帰化し国籍を取得し、ネパール系ブータン人となる者もいた。しかしそれは少数派であり、大半はブータンへの帰属意識もなく、文化的二言語的にも順化することがなかった。

さらに、こうした移住者に加え、出稼ぎ労働者としてブータンに滞在するネパール人もかなりの数に達した。こうしてネパール系ブータン人(帰化して国籍を取得した者)、ネパール人移民、ネパール人出稼ぎ労働者の数が徐々に増え、正確な人口統計がない中で、一九八〇年代にはブータンの全人口の三〇パーセント、あるいはそれ以上に達したと様々に推定・臆測されるようになった。この時点でブータン政府が、ブータン国籍を持たないネパール人住民・移民が国の安全上の最大の危険と意識した理由には、ただ単に数字の問題ではなく、その背景に「拡大ネパール運動」があった。これは、国際的にはほとんど知られることがない地域的なものであるが、ネパール周辺のインド領内のネパール人住民・移民が多い地域で、ネパール人に民族的団結意識を目覚めさせ、自治権、さらには主権を獲得しようとする政治的煽動があった。その最たるものが、ブータンの西に隣接するチベット系民族の小王国シッキムの悲劇である。

シッキムでは、ブータン同様ネパール系住民の数が徐々に増え、人口の過半数を占めた時点で、政治的「乗っ取り」劇が演じられた。その結果、シッキムは一九七五年にインドに併合されてシッキム州となり、現在ではネパール系住民が州人口の絶対多数を占め、元来のチベット系住民は数パーセントにしかすぎない少数民族と化した。これはブータンにとって絶対にその二の舞となってはならない例であった。それ故にブータン政府は、一九八〇年代に全国的な人口調査に乗り出すと同時に、国籍法、移民法を改正し、新たな移民を制限・監視するとともに、すべての違法滞在者に国外退去を命じた。国際メディアはいっさい報道していないが、これはネパール人に限ったわけではなく、インド人にも同じく適応されたことを見逃してはならない。

インド人の場合は、ブータン滞在を合法化する手続きをとるか、出身国インドに戻るかどちらかで、いっさい問題が生じなかった。ところが、一部のネパール人が、これをブータンによる「民族浄化政策」として国際メディアに訴えたので、一挙に国際問題化した。さらには一部のネパール人政治家による煽動も加わり、ブータンのネパール人社会はパニックに陥った。こうした状況の中で、第四代国王は自らたびたび南部を訪れ、ネパール系住民にブータン政府の政策を説明し、誤解を解き、ブータンに留まるよう説得した。結果的には多くのネパール人がブータン国籍を取得した者と、合法滞在手続きをとった者はブータンに残ったが、それでも八万人ほどのネパール系住民は、ブータンを去って自らの母国ネパールに戻りハそこで国連難民高等弁務官事務所から「難民」としての認定を受ける事態となった。