2013年12月25日水曜日

個別具体的に店舗の改善や営業政策などを話し合う

野田は担当ゾーンの売上動向を見ていて、来店客数がほぼ同じなのに売り上げが違う店があることに気づいた。よくよくデータを調べていくと、ファストフード類などでは差が出ていないが、非デイリーで優劣があるとわかったからである。個店の格差は「非デイリーにある」。そこで野田はOFCに対して二〇〇五年十月から、まずガムの売り場を徹底して強化することを提案した。ガムの売り場は一つの陳列棚(ゴンドラ)がガムですっぽり埋め尽くされていて管理がしやすいから、実験するには打って付けのカテゴリーと考えた。

「セブンーイレブン」のバックヤード(作業場)にあるパソコンの機能の一つに、ゴンドラ単位で売上局や利益を把握するシステム「ゴンドラ効率分析」がある。加盟店主やアルバイト、パートの従業員がキーボードを操作すると、たちどころに売り上げや利益がゴンドラ単位で把握できる。ところがこの「ゴンドラ効率分析」は全国のセブンーイレブンでも一日に〇・二回しか利用されていなかったという。そこでまず、OFCにはガムの「ゴンドラ効率分析」を加盟店主にこまめに参照してもらうように要請し、在庫の持ち方と売上高と利益の関係について考えてもらうことにした。

そして徐々にガムの発注量を増やしていき、在庫を少しずつ持ちはじめると欠品がなくなり、売り上げも改善されたという。数力月経って関西ゾーンのガムの売上局は全ソーンの中でトップに躍り出た。地道な取り組みだが、ゴンドラ効率分析を活用して非デイリー商品の力をつけていくことによって、店のレベルも上がることになる。ゾーンミーティングが二時三十分に終わると、次はディストリクトーオフィスーミーティングである。ゾーンよりもさらに細分化された地域単位の会議だ。全国を約百五十のディストリクトに分ける。野田の受け持つ関西は十六ある。一つのディストリクトは約七十店舗を束ねている。

当然のことながら、地域特性に合わせてより個別具体的に店舗の改善や営業政策などを話し合う。景気回復が鮮明になると、アルバイトの採用が思い通りいかないことがあるが、ディストリクトーオフィスーミーティングでは店舗周辺の時給相場の調査やアルバイトの募集広告媒体の見直しなどが検討課題になる。OFCは朝九時半から昼食を挟んでほぼぶっ通しで会議をこなしていく。密度の濃い一日の通奏低音としてあるのは、どれだけ加盟店主らの発注に生かしてもらえる有益な情報を習得するかである。ディストリクトーオフィスーミーティングが終了するのは夕方五時ごろ。全国から集まった約千五百人のOFCは、再び担当する地域に向かうためにセブンイレブン本部を後にする。

OFCは加盟店主に発注の大切さを理解してもらうコンサルタントである。もっと泥臭い言い方をすれば説得業である。フランチャイズチェーン(FC)契約だから、店舗運営や発注業務の決定権は加盟店主にある。OFCが発注数量を決めたり、発注数量を指定して商品を店舗に送り込むことをしてはいけない。OFCは鈴木の単品管理に関する考え方を加盟店主にかみ砕いてわかりやすく説明する役割である。もし売り上げが芳しくないなら、どうやれば売り上げと利益が上向くかを加盟店主らと一緒になって考える。カウンセリング業務でもある。

2013年11月5日火曜日

南ブータンの移民問題

国王譲位という誰一人望んでいなかった事態は、「はじめに」で述べたように、誰の予測よりも早く二〇〇六年二月一四日に、またしても何らの予告もなく訪れた。三四年に及んだ治世の、あっけないまでに簡略な終焉であった。三日後二月一七日の建国記念日に、二六歳の新国王は首都ティンプのチャンリミタン広場で初演説をし、第五代国王の治世が始まり、戴冠式は二〇〇八年に予定されている。国王が推し進めた民主化は、国内外でもよく知られ、評価されているが、あまり知られていないのが国家の安全という面での国王の貢献である。しかしこれは、第四代国王が一九七二年の即位以来、ひそかに心がけてきたことであり、その先見性、政治手腕をもっとも雄弁に立証するものである。

まず第一に、南ブータンのネパール系住民で不パール人移民の問題である。一九八〇年代末期に顕在化したこの問題は、一時国際メディアでも取り上げられ、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)も難民問題と認定し、現在でもネパール東部に八万人ほどの「難民」キャンプがある。しかし、この問題に関する限り、国際世論の視点はあまりにも一面的であり、本質を見逃していると思われる。そもそもブータン南部はうっそうとした無人のジャングル地帯であった。そこに一九世紀後半からネパール人が移り住み、開墾し始めた。こうした移住農民の中には、ブータンに帰化し国籍を取得し、ネパール系ブータン人となる者もいた。しかしそれは少数派であり、大半はブータンへの帰属意識もなく、文化的二言語的にも順化することがなかった。

さらに、こうした移住者に加え、出稼ぎ労働者としてブータンに滞在するネパール人もかなりの数に達した。こうしてネパール系ブータン人(帰化して国籍を取得した者)、ネパール人移民、ネパール人出稼ぎ労働者の数が徐々に増え、正確な人口統計がない中で、一九八〇年代にはブータンの全人口の三〇パーセント、あるいはそれ以上に達したと様々に推定・臆測されるようになった。この時点でブータン政府が、ブータン国籍を持たないネパール人住民・移民が国の安全上の最大の危険と意識した理由には、ただ単に数字の問題ではなく、その背景に「拡大ネパール運動」があった。これは、国際的にはほとんど知られることがない地域的なものであるが、ネパール周辺のインド領内のネパール人住民・移民が多い地域で、ネパール人に民族的団結意識を目覚めさせ、自治権、さらには主権を獲得しようとする政治的煽動があった。その最たるものが、ブータンの西に隣接するチベット系民族の小王国シッキムの悲劇である。

シッキムでは、ブータン同様ネパール系住民の数が徐々に増え、人口の過半数を占めた時点で、政治的「乗っ取り」劇が演じられた。その結果、シッキムは一九七五年にインドに併合されてシッキム州となり、現在ではネパール系住民が州人口の絶対多数を占め、元来のチベット系住民は数パーセントにしかすぎない少数民族と化した。これはブータンにとって絶対にその二の舞となってはならない例であった。それ故にブータン政府は、一九八〇年代に全国的な人口調査に乗り出すと同時に、国籍法、移民法を改正し、新たな移民を制限・監視するとともに、すべての違法滞在者に国外退去を命じた。国際メディアはいっさい報道していないが、これはネパール人に限ったわけではなく、インド人にも同じく適応されたことを見逃してはならない。

インド人の場合は、ブータン滞在を合法化する手続きをとるか、出身国インドに戻るかどちらかで、いっさい問題が生じなかった。ところが、一部のネパール人が、これをブータンによる「民族浄化政策」として国際メディアに訴えたので、一挙に国際問題化した。さらには一部のネパール人政治家による煽動も加わり、ブータンのネパール人社会はパニックに陥った。こうした状況の中で、第四代国王は自らたびたび南部を訪れ、ネパール系住民にブータン政府の政策を説明し、誤解を解き、ブータンに留まるよう説得した。結果的には多くのネパール人がブータン国籍を取得した者と、合法滞在手続きをとった者はブータンに残ったが、それでも八万人ほどのネパール系住民は、ブータンを去って自らの母国ネパールに戻りハそこで国連難民高等弁務官事務所から「難民」としての認定を受ける事態となった。


2013年8月28日水曜日

高齢化した社会で必要な移動手段

ちなみに地下鉄の建設費用は一キロにつき三〇〇億円前後で、モノレールなら平均一〇〇億円(沖縄の『ゆいレール』八七億円)と言われる。これに対して路面電車は二〇億円。重要なことは、ランニングコストもそれに比例して安いことだ。モノレールなら那覇市内が限度でも、路面電車なら市外にまで伸ばすことができる。LRTを敷設するもうひとつの理由は高齢化である。沖縄戦で多くの大人たちが殺されたため、沖縄県は全国でもっとも高齢化率が低い。〇五年の全国平均高齢化率が二〇%に対し、沖縄は一六・一%だ。しかし、いずれ高齢化社会に突入する。住民が高齢化して困るのは移動手段である。現実に、沖縄では高齢者が車を運転していることが非常に多く、私などはいつもヒヤヒヤしている。左折右折のサインは出さない、割り込みは平気、フラフラしながら走るといったように、いつ事故を起こしてもおかしくないくらいなのだ。

高齢化した社会で必要な移動手段は、コストがかからず年寄りが気軽に町に出てこられる交通機関である。その点、LRTはバスのように停留所の間隔を短くでき、高齢者も利用しやすい。ヨーロッパがLRTの普及に力を注いだのはそのためだ。現在は車を運転できても、年を重ねれば体力的に運転はむずかしくなる。昔のように地域社会がたしかな形で存在し、相互に助け合うユイマール精神が失われていなければ、さほど心配することもないだろうが、いまやユイマールなど言葉だけで、沖縄の本土化と同時に都市から消えてしまったと言われる。とりわけ那覇周辺は、街のかたちも人間の精神も、かぎりなく本土に近づいている。

車社会の沖縄で、車が運転できなければ手足をもぎ取られるのも同然だろう。そうなる前に、高齢者が利用しやすい超低床のLRTを普及させる。ところが、沖縄にできたのは、「ゆいレール」の愛称で呼ばれるモノレールだった。総工費一〇二八億円とも言われる大工事が完成したのは〇三年。全国のモノレールがほとんど赤字で苦しんでいるなかで、なぜ路面電車ではなく、モノレールを選んだのか。路面電車だと車線を減少させるので、ドライバーの反発を恐れたという。それもあるだろうが、本音は、建設費の半分以上を国庫補助負担金でまかなえるからだと言われる。ちなみに路面電車の場合は最大で四分の一の負担金が出るにすぎない。

当初の計画では宜野湾から沖縄市まで敷設する計画もあったが、おそらくモノレールでは、延長したとしても採算がとれるのはせいぜい隣の浦添市までだ。現在は首里駅で止まっているが、無理な延仲をするよりも、モノレールとライトレール(LRT)のコラボレーションも考えてみるべきだろう。コザのライブハウスから生まれた「沖縄ロック」現在の沖縄市は復帰後の七四年まで「コザ市」と呼ばれ、日本で唯一のカタカナの町として知られた。「戦後復興」「極東最大の嘉手納基地の出現」「土地闘争」フベトナム特需」「復帰闘争」「コザ暴動」等々と、コザは激動する戦後の沖縄を象徴する町たった。今でも地元の人にとって沖縄市よりコザのほうが通りがいい。沖縄の中でコザは特別な存在なのだ。そして、私にとってもコザは特別な存在である。

コザは拙著『ねじれた絆』の舞台で、七八年から約一七年間も通い詰めた町だ。金欠のときはよく「デイゴホテル」に泊まったが、いつの間にかここのオトウサンと意気投合し、予約の電話を入れると「特別室」を用意してくれるのである。その部屋といったら、一〇人は合宿できるほど広い。気を利かしてくれたつもりだろうが、私にはあまりにも広すぎて落ち着かず、いつも片隅に寝ていた。ちょっと余裕ができたら「京都ホテル」に泊まった。コザで京都とは不思議な気がするが、当時はコザでこのホテルがいちばんよかったのだ。いつも取材がうまくいくとはかぎらず、そんなときは町に飛び出し、昔は栄華をほこった小汚いバーをハシゴし、仕上げにライブハウスで「沖縄ロック」を堪能した。これが結構おもしろくて、一夜では足りないほど堪能できた。

2013年7月4日木曜日

二人でより多くの子供を育てる意欲

そんなの対処しようがないって?違います。証明はできなくとも、反証があるかどうかは簡単にチェックできる。反証のないことだけを暫定的に信じる、明確に反証のあることは口にしないようにすることが、現代人が本来身につけておくべき思考法です。実際には世の中の事象の多くは証明されていない(証明不可能な)ことなのですから、反証かおるかどうかを考えて、証明はできないまでも少なくとも反証の見当たらない命題だけに従うようにしていれば、大きな間違いは防げるのです。

ところがこと社会的に何か動きを起こそうとすると、反証の有無は無視されて、証明の有無だけが決定的に重要とされがちです。最悪の例が水俣病でしょう。水俣病の原因は、工場から垂れ流された廃液の中の有機水銀化合物だったという事実は、今では社会的に広く認知されています。ですが当時そのことは、学問的には証明できていませんでした。そこをタテに、つまり「水銀が奇病の原因とは論証できていない」という口実で、当時の通産省は廃液への規制をなかなか行わず、その間も被害が拡大したのです。ところが実際に廃液垂れ流しを止めてみると、水俣病の新規発生も止まりました。つまり、有機水銀化合物が水俣病を起こすということは「学問的には論証できなかった」のですけれども、「有機水銀化合物がなければ水俣病は起きない」という反証は成立したわけです。

このように実際の世の中には、論証を待たずとも反証を検証して実行に移すべき政策があります。そこを認めないでぐずぐず論証を待っていると、へ夕をすると人の命まで失われてしまう。女性就労と出生率の話もまったく同じような構造で、「若い女性が働いている県の方が出生率は高い」という事実を、理由はともかく事実として認めないと、日本経済が死んでしまいます。よく誤解されるのですが、「出生率を上げるために女性就労を促進しろ」と言っているのではないですよ。「内需を拡大するために女性就労を促進しましょう。少なくともその副作用で出生率が下がるということはないですよ」と言っているのです。

そうはいっても皆様に肺に落ちていただかないと仕方ないので、「なぜ若い女性の働く都道府県の方が合計特殊出生率が高い」という相関関係が観察できるのか、理由を推測してお話しします。あくまでも推測でして、証明はできませんが、どれかによって少しでも多くの人が「肺に落ちた」という思いになっていただければ幸いです。推測できる理由の第一は、いまどきダブルインカムでないと、子供を三人持つということはなかなか難しいからということです。普通の家庭の収支バランスを考えれば、皆さん簡単にご実感できることではないでしょうか。なぜ子供三人という話が出るのか。人目水準を維持するには二程度の出生率が必要ですが、三人以上産んでくださる人が相当数いない限りは当然出生率は二を超えません。

ということで、たまたま子供を産むのに特に向いた体質・性格を持った人がいた場合には、経済的な制約にからめとられることなく三人以上を産み育てていただける社会構造にしておく方が望ましく、そのためにはダブルインカムのご家庭を増やすことが近道なわけです。理由の第二は、共働きであることにより、会社に行くことやその間は保育所などを利用できることで、あるいは親の手助けをより受けやすくなることで、子育てのストレスが少しは緩和されるということです。さらには若い世代ではかなり当たり前になってきているものと願っていますが、父親も母親も働いていることで、逆に父親もなるべく対等に育児に参加するようになりますと、二人でより多くの子供を育てる意欲が湧いてきます。





若い女性の就労率が高い県ほど出生率も高い

 さらに先入観を取っ払って考えましょう。女の人を単純労働力として便利使いしているだけではいけません。日本企業は明らかに、企画に参画する女性、経営に参画する女性、そして女性経営者を増やすべきなのです。というのも‐本では、財布の紐を女性が梶っています。これは最近始まったことではなく、どうも家族制度が母系制だったに七目代に遡る伝統のようです。ですから、女性が企画した方が売れる商品が作れます。さらに女性が経営することで、長期的に女性の心を捉え続けることのできる企業が成立するはずなのです。ところがほとんどの企業は「女性を経営側に入れて女性」巾場を開拓する」という可能性をきちんと追求していない。ミクロ経済学が前提としているところの「市場経済の各プレーヤーが利潤最大化に向けて工夫の限りを尽くす」という行動をできていないわけです。生産年齢人口増加が続き市場が自動的に拡大していた半世紀、ひたすら生産能力さえ増やせば儲かったという体力勝負の時代に、男性中心の軍隊組織で一斉突撃をして成果を挙げてきたという成功体験の呪縛から脱け出ない限り、今世紀に生き残る展望は開けてきません。

ところが、どこでも同じなのですが、こういう話をしますと驚くほど多くの方が納得しない表情になります。「女が今以上に働くとさらに子供が減るのではないか」と心配されるのです。これは老若男女問わずに本当に根強い思い込みです。実はこの問題は、「身近に起きている個別の事実から帰納して、一般的なセオリーを導き出すことができるかどうか」という能力を試すのに、好適なテーマです。それではお聞きしますが、日本で一番出生率が低い都道府県はどこでしょう。東京都ですね。それでは東京都は、女性の就労率が高い都道府県だと思いますか。低いと思いますか。高いと思いがちですよね、でも事実は違います。東京は通勤距離が長い上に金持ちが多いので、全国の中でも特に専業主婦の率が高い都道府県なのです。逆に日本屈指に出生率の高い福井県や島根県、山形県などでは、女性就労率も全国屈指に高いのですよ。

同じくお聞きしますが、専業主婦の家庭と共働きの家庭と、平均すればどちらの家庭の方が子供が多いでしょう。これまた専業主婦で子沢山という、ドラマに出てくるような例を思い描いてそれが全体の代表であるように考えてしまう人がいるでしょうが、事実は違います。共働き家庭の方が子供の数の平均は多いのです。数字を見てみましょう。この図は、二〇代、三〇代の若い女性がフルタイムで働いている率と、合計特殊出生率との関係を、都道府県別にみたものです。この通り、強くはありませんがそれなりの正の相関が観察されますね。少なくとも若い女性が働く県ほど出生率が低いというようなことはまったくありません。これは多くの方の先入観に明確に反している事実ですが、先進国ではいずれも普遍的に観察される現象でもあります。

ここでご注意いただきたいのですが、相関関係というのは因果関係ではありません。若い女性が働く県ほど出生率が高いという現象(‐相関関係)が観察されるのは事実ですが、若い女性が働くことが原因で出生率が高くなるという原因結果の関係(=因果関係)があるとは限らないのです。アメリカでは「蚊の多い地域ほど結核患者が多い」という相関関係が見られるそうですが、これはもちろん蚊が結核の原因になっているからではなく、「暖かい地域ほど蚊が多いし、それとは別に結核患者の療養所も暖かい地域に多く設置されている」というのが理由です。同じように若い女性が働く県ほど出生率が高いという事実も、若い女性が働くというのと出生率が高いというのとに共通する第三の理由がある可能性は十分にあります。たとえば親との同居が多いとか、結婚すれば共働きは当たり前という気風がある、というのは有力な候補です。

ですが第三の理由があろうとなかろうと、「若い女性が働くと子供が減る」という命題は、疑う余地のない反証によって明確に否定されているわけです。考えてみれば、江戸時代から高度成長期までの農民はほぼ全員共働きでしたし、共働きですが日本史上で考えれば最も子沢山で出生率が高い人たちでしたね。そういう歴史的事実とも、この結果は符合します。日本のお受験エリートの思考様式の大きな欠陥がここです。彼らが得点競争に勝利してきた試験の世界では、「理由つきで証明されている」ことだけが出題されてきました。その結果として、証明つきでオーソライズされた命題はたくさん覚えているのですが、証明ができない命題にどう対処するかという訓練ができていないのです。



2013年3月30日土曜日

次の瞬間を読む目

この瞬間がすごく魅力的に見えたのでシャッターを切りました。何回かそれを繰り返すうちにムッとした顔になり、ついに「ちょっとお」と抗議されてしまいました。「タイミングが合ってないじやない、わたしに合わせてよ」と怖い顔。もういい顔は撮れたと思ったので、数枚タイミングを合わせて撮影終了。この狙い通りの写真がカラーグラビアを飾りました。女優さんの感想が聞けなかったのは残念でしたが、われながら満足のゆく出来でした。

「顔」が商売の人は、いくつもの表情を用意しているつもりでしょうが、つくり顔には撮るほうもすぐに飽きてしまいます。そうなると、ちょっと違った表情を探したくなります。これは決して意地悪からではなく、つくり顔をしてない瞬間のほうがその入らしさが出るからです。レオナルドーダービンチの「モナーリザ」は謎の微笑で有名です。確かに微笑しているように見えますが、目は笑っていません。口許は笑ったあとのようでもあり、笑う直前のようにも思えます。ほおは微笑する寸前のようにも見えます。筆者の鑑賞眼では、せいぜいこんな感想しか申し上げられませんが、「この微笑は動いている表情の変わり目の一瞬を描いた絵だ」という説があるそうです。筆者もこの説に賛成です。顔のどこかが動き始めている、声をかけられ、心の中で気持ちが動いた瞬間のように思えるからです。

女優さんとのタイミングが合わなかったばっかりに会心の写真ができたと、自己満足ついでに言わせていただけば、もしかして「モナ‘・リザ」は、製作中にレオナルドーダービンチとモデルの貴婦人との間に起きた、何らかのチグハグさから生まれたものではないでしょうか。なんて、とんだお笑いぐさでしょうか。まだ十四、五歳の中学生の頃、校庭で暗くなるまで野球をして遊んでいたときのことです。いよいよボールが見えなくなって帰ろうかというとき、グローブが一つ見つかりません。探そうにも、ホームベースからは内野のベースくらいまでしか見えません。

そのとき、仲間の一人がセンターとライトの間にある鉄棒のあたりを指さして、あそこにあると言ったのです。みないっせいにその方角を見ましたが、もう暗くて何も見えません。ところが指さした本人は、グローブの横にボールも見えると言います。数人が黙って鉄棒に向かって走り出しました。すると、確かにそこにグローブとボールがあったのです。みな口々に、明るいうちから知ってたんだろうとか、お前が忘れてきたんだろうなどと言って、誰も彼の言うことを信じませんでした。

それから十数年後、タイのバンコクでお坊さんたちの生活や、日本人のお医者さんを撮影したあと、タイ料理の食材で人気の、食用蛙を捕る名人を取材しました。暗くなってからジープで三十分、バンコク市郊外に広がる田園地帯に行きました。名人は三十歳くらいの小柄な人で、左手に薄暗い懐中電灯、右手には先に鈷のついた三メートルくらいの竹竿を持ち、田んぼの畦道を抜き足で進んでいきます。懐中電灯といってもロウソクの光ほどで、名人の姿が闇の中にやっと見えるぐらいです。そのうち、やおら足を止め、鈷をゆっくり頭上に構えると、五メートルほど先に狙いを定めました。