2014年12月10日水曜日

実質的「機会の平等」

こうした仕事は、残念ながら中程度の熟練労働を幅広く生み出さない。能力やスキルの違いによって、何倍、何十倍もの生産性差異、すなわち所得格差を生み出してしまうような仕事だからだ。比較的、国際競争にさらされにくいサービス産業においても、生産性⊇・所得水準)を高めようとすると、専門知識、言語などの技能、接客能力、あるいはITなどの技術を使いこなすスキルが求められる。この傾向は、医療や介護など、今後、成長が期待されるサービス産業分野では顕著になっていく。やはり真剣に職業訓練、すなわちリアルな仕事の役に立つことをしっかり勉強しないと賃金は上がらないのだ。がっての大量生産組み立て産業のように、設備集約型と労働集約型の中間業態の産業が、放っておいても厚みのある中産階級を生み出した時代はもう返ってこないのである。

結局、生産性通りに賃金を払えば、自然に格差は拡大するし、それを否定すれば企業として競争力がなくなる。結局、こうした分野に耐えうる能力水準、それも国際競争の中で戦い抜ける能力を一人でも多くの日本人が身につけることが、ここでの根本的な格差対策となるのだ。やはり高等教育、大学教育は大事なのである。それを精一杯やったうえで、格差が世帯の中で世代を超えて再生産こ・格差の階級的固定化)されないように、所得や教育機会の再分配を有効に行うことが、最大限の格差対策である。逆に、気をつけておくべきは、決して所得再分配政策で分厚い中間層を生み出せるような幻想を持ってはいけないということだ。政策にもイデオロギーにもそんな力はない。

人は格差そのものに絶望するのではない。格差が固定化すること、すなわち既得権が絶対化(階級化)することに絶望し、そういう社会は希望を失って不健全なものとなっていく。厚みのある中開層は、究極的には人々の発意と、正しい努力と、それを勇気づけ、可能にする(前世代で生まれた格差を次の世代に固定化させない)社会システムからしか生まれない。そこでの主役はあくまでも自助原理、共助原理に基づく実質的な「機会の平等」であって、公助原理による「結果の平等」は補完的な存在にすぎないのだ。

実質的「機会の平等」何を規制し何を緩和するのか。じつは実質的な「機会の平等」の確保においても、政府がやるべきことはたくさんある。その典型が、既得権者の既得権者による既得権者のための規制を改革することだ。新しいアイデア、革新的な方法で、より安くより安全な製品やサービスを提供しようとするプレーヤーに門戸を開放することで、新しい需要が生まれ、新しい雇用が創出される。新たなビジネスモデルのほうが、従来のものよりも生産性が高ければ、賃金も上昇している。

その一方で、安易な値下げ競争、過当競争が、かえって品質や安全性の低下を生まないように、安全規制などのいわゆる警察的な規制は強化する必要もある。自由化は、商道徳を無視して、その場限りの「やらずぼったくり」なプレーヤーがゲームに参加してくるリスクを大きくする。最近起きた高速バスの事故などは、ここに問題の根がある。警察規制だから、厳格なルールとそれを破った場合の厳罰、そして取り締まり体制の強化が前提である。こうして、しっかりした警察的規制が機能して初めて、継続的に顧客や社会の付託に耐えうる財やサービスの提供を行う事業者と、従業員の人件費を削ることで、その場限りの安易な金儲けをたくらむ事業者との間の「実質的」機会の平等が実現する。