2016年4月9日土曜日

スハルト時代以来の悪習慣

IMF等への一種の「外圧批判」は、単なる民族主義的感情の高まりだけでなく、スハルト時代以来の既得権益層の生き残り戦略と密接に結びついており、今後の展開を注意深く見る必要がある。公共料金の値上げや補助金廃止への反対運動は、政治的な支持拡大をねらったポピュリスト的な色彩が強い。政権をゆさぶろうとする勢力がこうした弱者への負担増をともなうような政策イシューをことさらに取り上げ、IMFの処方隻に基づいた経済再建努力に水を差している可能性もあながち否定できないのである。

いずれにせよ、インドネシア国内には動員できる資金があまりない。外国援助であろうが外国投資であろうが、外から資金を注入しなければ経済が動かない。物乞いとまではいかないが、外に対して「いい子」に振る舞わざるを得ない現実がある。地方分権化をむかえた地方レベルにおいても、開発資金をいかに確保するかが課題である。これまで、地方での開発事業のほとんどは政府による公共投資で行なわれてきた。

しかし、地方への補助金の送り出し元である中央政府の財政が厳しい状況である上に、地方政府の自己資金源を大幅に拡大できる余地はない。地方へもっと民間投資を誘致しなければならないが、相当の時間とコストがかかる。そこで、すでに操業している企業(とくに外国企業)があれば、そこからなんとか資金を搾り取れないか、と地方政府が考えてもおかしくないかもしれない。

2016年3月9日水曜日

少年法で裁く限界点

少なくとも民事裁判では、いわゆる「応報」的な考え方は法律専門家の間では否定的に考えられています。民事責任のレベルについては、加害者は被害者に対して、その損害に応じた程度の賠償をすれば足り、それ以上を強いることは酷であるし、正当でもないとされています。

従って責任が甘くて済んだときも、これで責任は果たしましたと言いながら、本当に責任を果たしたのか疑問なケ-スがあまりにも多い。それが最近の司法に接していて感じることです。

そして、責任を取らなければならない側は、「甘い責任」を狙って、頭は下げるわ土下座はするわ、ということになりますが、それはあくまでも「責任逃れのため」という目的がいかにも見え透いているために、どうも釈然としないということになります。

「謝ったから責任を軽くしてやろう」というのも一つの理屈ではありますが、欺隔的な謝罪を清算してからでないと、結局は感情に流されてしまって元の木阿弥です。権利や正義が実現できなかった人は、法や裁判に失望します。逆に、それでうまいことやれた人々には、「なかなかうまい制度になってるんだな」と思わせることになります。

少年に妻子を殺された被害者と、少年法で社会復帰できた殺人者が、それぞれそんなことを感じるようなことがないよう祈るばかりですが、これは何も少年法の分野ばかりではありません。他にも「社会悪」というべきものが沢山あります。それらに立ち向かっていくための制度や手続を考えるべきではないでしょうか。