2012年9月3日月曜日

人間もまた含みをもつことによって「人格」なのである。

人間もまた含みをもつことによって「人格」なのである。ある青年は人と対談している際に、自分だけが知っていて相手か知らぬというプライヴェイトなものがないと感じたとき、自分をすっかりだしつくしてしまったと感じたとき、「まるで自分がもう自分でないような、自分固有の人格をなくしてしまった気がした」とのちに語っている。

ところでダイジェストするためには、言語的表現だけをたよりにアレンジしなければならぬので、ことばとなれない含蓄的生命は諸過されしたたってしまい、のこったものは水気のきれたむくろにすぎない。しかしそれでよいのかもしれない。凝固したくりかえしのなかでりるおいを切らしてしまった機械社会の人々は、もう生命的躍動的な心に感入できる心の持主ではなかろうから。

消化雑誌にもられた物語をいくつかつづけてよんでいると、気分かいらいらしてくる。こうした経験をもつ人はまれであるまい。なぜか。解答はいたって簡単である。私どもは展開のないラヴェルのボレaをきかされっづけていると、あの単調な旋律がいろいろの楽器に次から次へとうつされてつのってくるのとともに、言いようのないいらいらした不快さにこじれてくる。

それは消化雑誌の不快さと本質において少しもかおりない。単調なもの、こわばったもののくりかえしを強いられたとき、私どものなかに凝固的反復に反抗する弾性的生命があってこそ、あのいらだたしさか生まれるのではないだろうか。たえずながれ発展していく内的生命が、外から強いられた涸渇に対する怒りのうなり声、このうなり声がたまって「いらいら」の感情となったのである。

昼間機械のリズムに自分をあわせていた人は夜になって解放されて何をいとなむのであろうか。彼はあしたに耕して夕べに書をひもとく生活をいとなむ人とちがって、日がおちてから自分にもどるわけにいかない。なぜといって、もどるべき自分は自分でなくて、心の心けだあやつり人形だったからである。彼が夜のくるのをまちうけてすることは、このよりな無生命の自分をわすれること、そこで底ぬけさわぎ、ばか話、社交舞踏、堕落への耽溺がはじまる。

このいとなみの陽気さかるやかさは、しかし生命充実的な快活さとは似ても似つかない。ほんとうの快活とは、自分のからだにみなぎる生活感を人々とわけあう。たがいに協和音を生みだそうとするものだ、か、氏ぬけさわぎの方は相互了解をもとめてつきあっているのではなくて、自己忘却をのぞんでいるのである、したがってまずうごくこと、それが不可欠だから、そうそうしい急速調の踊りが流行する。キィキィと関節がなりだしそうな機械じかけの踊り、それは生のよろこびをふりまく村人の踊りとは根源的にちがう近代化された骸骨の踊りでもあろう。

ひからびた感情

いきたものは凝固と反復をきらい、つねに自分で自分をかえて進腱していく。だから行動とはもっともきびしい意味では自己変革的、外界変革的な行動でなければならぬ。それで内部からわきでる生命力にとぼしい人は、そとから自分をむちうつ刺激、かないような固定した状況におかれているというと、たとえば毎日流れ作業のベルトのまえでくりかえしの作業にはめこまれていたり、会社づとめの人のようにきまりきった事務で明けくれする日々がつづしていれば、彼のすることはもう生きた行動ではなくなって、心のない機械の反復運動と区別かつかなくなってしまう。数年以上オフィスにかよっているつとめ人は、どんなに彼がそれから眼をふさごうと、水気がとぼしくなった自分を知らずにすごすわけにはいかない。

あたたかい血がまわってやしなわれていたからだが、つめたい油で摩擦をふせいでいる金属体にどうやらかわってきた感じがするにちかいない。けれども金属の感じが自分でひやりとふれるうちはまだよいので、何年かたってすっかり金属にたりかわってしまえば、水気の減った感じももうなくたって、無感情の機械がそこにあるだけとなる。

無感情はごく手ぢかなところにもある。道をあるいていく運動についてみてもよい。歩行は一見すれば前進的な行動のようにとられがちだが、そう思いあやまってはならない。歩くことはロポットでもできるのである。それは外界に向って変革的にふみいっていく生命的行為とはゆかりのないただのくりかえしの運動で、そとの実在界に自分の存在を刻印するものではなく、ふわふわした位置の移動にすぎないのである。

私たちは歩きながら深くものを考えることかできない。歩行中の考えはいくら次々と追っていこうとつとめても、たちまち尻尾が消えてしまって、たまたまフト出現した断片的な考えか浮いたり沈んだりしていてさっぱりすすまないものである。つれだって歩いている人が、話がなにか要談にはいるときは、立ちどまって向きあって話しあいをはじめるし、まして意見にくいちがいがおこって争いともなれば、テクテク足をはこびながらの「無感情」ではどうしようもない。

人間は一つの運動をくりかえしているとひとりでに感情がひからびてくるしかけをもっている。その運動あるいはおこないか、はじまりにおいてはどんなに新鮮なものだったにせよ、「反復」という吸血鬼はかならす私どものなかから水気をうばって生命のぬけたむくろにひあからせずにはおかない。ところで機械化してゼソマイじかけの運動にかためられた人間は、ネジがゆるみ切るまでは不断に一つの動作をやっていなければならない。休むわけにはいかない。こういう反復運動に明けくれする人たちの手にダイジェスト雑誌がこのんでとられるのは流行のせいだとか、いそがしい身だからというわけだけではなくて、「せざるをえない」別のわけかあるのである。

芸術作品はその本性上。ことばで語られたものの背後の味が生命となっている。ことばの表現の布地の間からしみだしてくる含みのある心、それが芸術の生命であり、なにもかも表現しつくされてしまえばもののあじわいはなくなってしまう。