2015年12月9日水曜日

ムーディーズによる日本国債の格下げ

日本にも当時三つの格付け機関があったのに、なぜムーディーズの格下げが日本企業に致命的なダメージを与えたかということである。結論的にいえば、日本と米国の格付け機関の格付け結果に大きな差があるためである。米国の格付け機関の方が日本企業に対する格付けが厳しくなっているが、どちらの格付けが正しいのかについては、後で検討するようになかなか難しい問題である。しかし、建設業の談合がおよぼした企業経営への影響、日本の銀行が結局は多額の不良債権を抱えるようになったこと、山一証券には隠された「飛ばし」の債務がやはり存在していたことなど、結果的にはムーディーズの予測が日本の格付け機関よりも正しかったことが金融関係者の「ムーディーズ信奉」を高めることになった。

日本の国債は信用度の最も高いトリプルAであったが、九八年四月にムーディーズは日本国債をネガティプーリストにあげた。格付け機関は、格付けの変更が見込まれる場合に格下げの方向で検討するか、格上げの方向で検討するかをウォツチーリストに載せる。格下げの方向で検討する場合には「弱含み(ネガティブ)」と発表し、格上げの方向の場合は「前向き(ポジティブ)」とする。変更の見通しが発表されると約三ヵ月後に、格の変更をするかあるいは変更しないかを確定する。ムーディーズは九八年七月に再度「Aaaから引き下げの方向で見直す」ことを発表し、四ヵ月後の十一月十七日にAalに格下げした。

このようなムーディーズの日本国債格下げに対して、日本の各方面から反論が出されている。反論は、「日本は一二〇兆円もの対外純資産があるのに格下げはおかしい」という経済力の内容に関するものから、「ムーディーズの分析手法に問題はないのか」という疑問を投げかけるもの、「よその国の信用状態を外国の一民間機関が批評するのはけしからん」というナショナリスト的なものまでさまざまである。ムーディーズによる外国政府債に対する格付けは一九二〇年代から行われているが、民間企業の格付けと異なって外国政府の評価はなかなか微妙な問題が含まれている。政府が発行する自国通貨建ておよび外国通貨建ての格付け分析手法については後で、日本国債の格下げ問題についてはエピローグで検討した。

タイや韓国のように格下げと為替レートの下落、それに続く経済混乱が循環的に続いていったり、拓銀、山一が格下げによって破綻・廃業にまで追いつめられるようになった背景は何であろうか。ヤオハンの社債が九七年九月に日本の格付け機関JBRIによってシングルBに格下げされてデフォルトになったが、このような公募債が償還不能になったのは昭和初期以来初めてのことである。

このような「負の循環」が発生する原因の第一は、マクロ的な国際経済環境の変化である。一九八〇年代の中頃から各国の規制緩和により次第に国際資本移動が活発になり、国内の金融市場と為替市場が連動的に動くようになった。特に、投機的な短期資本の国際移動は固定相場制(ERM)をとっているヨーロッパ諸国の通貨や、事実上アメリガードルとの固定相場であるペッグ制をとっている国の通貨を狙い撃ちして世界を駆け巡るようになった。

投機資本は実体経済が弱くなってきた国の固定レート通貨を大量に売り浴びせて、その国が固定レートを断念し、為替レートが下落したときにそれを買い戻して利益をあげる(高く売って安く買い戻す)という行動をとっている。格付け機関が行うソブリン(政府)格付けはその国の経済のファンダメンタルズを評価するので、格付けが下がると為替レートの切り下げ調整が行われる可能性を表す指標としても受け取られている。そのために為替取引の規模がそれほど大きくなく、投機資本の影響を受けやすい中規模国がターゲットになりやすい。

2015年11月10日火曜日

日本人の精神の退行化

子どもの「個」が成長し自立する過程で、自分がふさわしいと考える価値観や理念を主体的に選び出し、それを自分の人生や社会で実現すべく戦略を立てて行動できるよう子どもを教育すればよいのである。国家神道が教育によって日本人の「精神の退行化」を果たしたように、教育だけが日本人の「精神の近代化」を可能にするのである。むろん、このことによって自分とは異なる価値観や理念の持ち主との摩擦や葛藤が生じることは避けられない。だが、だからこそ相手を感情的に全否定するのではなく、「議論」と「説得」による互いの切瑳琢磨と、目的や必要に応しての「妥協」と「連帯」の技術を習得させることが大切になるのである。

理念や価値観なしの妥協や連帯は単なる「ご都合主義」にしか過ぎないが、理念や価値観をしっかり持ったうえでの妥協や連帯は理念実現のための不可欠のプロセスである。それに理念や価値観を同じくするもの同士だけでなく、異なるもの同士の間での妥協や連帯の仕方を学ぶことにより、互いに理念を異にするもの同士が感情的に反発しあうだけで、最後は互いのタコ壷に龍ってのコミュニケーション不全状態となる結果を避けることができるのである。価値観や理念の「競争」は「共生」あってのことなのである。

また国際関係においては、西欧の要塞文明が理念や価値観を異にするもの同士の間での「合従連衡」の巧みさを日本人もしっかり学ぶべきである。世界史を見れば、英米がソ連と組んでナチス・ドイツと戦ったり、アメリカが共産中国と組んでソ連と対峙したりと、枚挙にいとまがないほどである。理念や価値観がまったく異なっていても、目的が合致すれば「連帯」できるのが西欧の連合戦争神の「連合」たる所以なのである。

2015年10月9日金曜日

自然環境と人間環境との相違

バウハウスといえば、一九一九年八月に誕生したワイマール共和国の要請で、ドイツの建築家ワルター・グロピウスらが構想した総合的な造形学校として知られる。建築を主軸とし、芸術と技術とが手を結んで、新しい時代にふさわしい生活環境の創造に、グループの力を通じて寄与するという理念をかかげてスタートしたこの運動は、その後の社会の変遷とともに紆余曲折の歴史をたどることとなった。

その最も象徴的なモニュメントが、創設者グロピウス白身の設計による「デッサウのバウハウス校舎」であろう。この校舎は、工業化時代を迎えた二十世紀初頭における、ドイツ特有の機能美と構造とによって統一され、ガラスーカーテンウォールを初めて採用した画期的な建築として注目された。こうして、この校舎で行われた講義や共同作業などを通じて多数の人材が輩出されるとともに、機能性とシンプルな美しさに富む、さまざまな生活用具が生みだされた。

ところが、やがて台頭してきたナチズムの価値観にとっては、バウハウスの理念も表現スタイルもことごとく相反するものだった。とくに、バウハウス校舎のガラスーカーテンウォールはヒトラーの嫌悪の的となり、やがて無残にも煉瓦の壁に替えられてしまったのである。ナチス=ヒトラーというフアナティカル(狂信的)なリーダーの偏見にもとづく愚行であったとはいえ、その価値観なり理念を支え信奉した多数の国民が存在したことを考えると、複雑な思いにかられるのである。

ところで、さきほど、自然環境と人工物環境とのあいだに、ほどよい調和が保たれていることがアメニティの基本でなければならないと述べたが、″ほどよい調和″とは、いったいどういう状態を指すのかということは、非常に大きな問題であろう。そこで、あらかじめこの点について若干の説明を加えておきたい。

その場合、自然環境とはなにかということと、それに対する人工物環境(人間環境)との関係について、まず念頭にいれておく必要があると思われる。″自然環境″という言葉のなかには、すでにご承知のように、″自然″および″環境″という二つの概念がふくまれている。ごく常識的にいえば、人工化されていない自然の状態を保った環境ということになろうが、これではあまりに漠然としていて、つかまえどころがない。そこで、もう少し説明させていただこう。

2015年9月9日水曜日

地球温暖化と少子高齢化

ユニクロにしても和郷園にしても、共通することは価値のある商品を適正価格で消費者に届けるために、自ら流通チャネルの構築に動いたということだ。一見同じような商品をつくったり販売したりしているようで、独自の流通チャネルを持つことで競合相手とはひと昧違った商品を提供できるのだ。日本の流通ネットワークは実によくできている。市場が拡大しているときには、それは効率的なマス・マーケティングを実現するうえで有効であった。しかしデフレ時代にはそうした「便利な」流通チャネルを疑ってみることも必要なのだ。

地球温暖化に関するニュースが増えている。2008年6月9日には、2050年までに現状に対して最大限で80%の温暖化ガス排出削減を目指した福田ビジョンも政府から発表された。もし本当にあと40年で80%も減らせるとしたら大変なことである。炭素燃料の使用が大幅に減るというだけでなく、産業の姿から生活スタイルまで大きく変わっているだろう。40年後の話をしても、国民の多くはずっと先のことのように考えるかもしれない。しかし、世界に目を転じてみると、温暖化ガスの蓄積によって起きる地球規模の気候変動の問題が各地で起きている。欧州を襲った記録的な熱波、頻発する巨大なハリケーンや台風、豪州の干ばつなど、多くの研究者が指摘する地球温暖化の弊害が現実のものとなってきている。こうした温暖化の現実が世界の政治を少しずつ動かし始めている。

これから20年の日本の経済を考えるCWでもっとも大きな構造的な要因は何かと問われれば、この温暖化対策の問題と、少子高齢化のもとでの人口減少と答える人が多いはずだ。少子高齢化も重要な要因だが、ここでは温暖化対策の小売立地への影響について考えてみたい。特に注目したいのは、郊外に広がった商業集積はどのように変化していくのか、という点である。都市の構造や商業集積の姿は時代とともに変化してきている。日本では、1970年代から始まった本格的なモータリゼーションや80年代後半以降の規制緩和の流れで、商業の郊外化か急速に進展していった。最近の規制強化の動きで大型店舗の出店のスピードは少し鈍ってきたものの、依然としてこうした流れは続いている。

ただ、こうした流れが今後20年続くと考える人は少ないだろう。世界が温暖化対策に真剣に取り組み始めれば、都市の姿は中心により多くの機能を集めたコンパクトシティーに変わっていかざるをえないからだ。10年から20年という長い期間をとれば、都市の姿は大きく変わってきている。戦後の経済成長と人口増加の中で、都市は郊外に向かって広がり続けてきた。そうした流れの中で郊外型の大型商業集積が出てきたのだ。大型商業集積は既存の秩序に大きな変化をもたらすうえで重要な役割を果たしてきた。店のレベルだけではわかりにくいかもしれないが、輸入の拡大から中間流通の革新に至るまで、小売の変化抜きに考えることはできないのだ。

地球温暖化と少子高齢化はそうした小売業の姿を大きく変える原動力となるだろう。コンパクトシティーの中にどのように小売業を位置づけるのか、これがこれからの都市開発の大きな課題であることは間違いない。その答えはたぶん旧来型の商店街の復活ではないだろう。都市型商業集積からインターネットをフル活用した直販まで、新しい都市型の商業形態が模索されなくてはならない。2008年に京都市などで、コンビニエンスストアの深夜営業が問題となった。行政が温暖化対策などを前面に出してコンビニの深夜営業を禁止する方向で検討を始めたのに対し、コンビニ業界は猛反発している。

2015年8月11日火曜日

高齢化社会め主要財源

これを実際に行なうには、きわめて強い政治的な抵抗があるだろう。しかし、そうした改革の努力なしには、今後の財政運営は、きわめて困難な状態に陥るといわざるをえない。社会保障費が巨額になっているヨーロッパ諸国では、消費税は主要な税源だ。また、消費税は間接税であるため、負担感が薄いという特徴もある。だから、高負担税制においては、消費税を主要な税にすれば、政治的な反対を最小限にとどめることができる。

しかし、それだけのことから高齢化社会め主要財源を消費税に求めようというのは、安易な考えだ。社会保障給付をまかなう主要な税源を何に求めるかは、課税の容易さ以外の点も考慮して、慎重に考えるべき問題である。以下では、相続税こそが社会保障給付をまかなう主要な財源となるべきだという考えを提起し 社会保障給付がない社会では、退職後の生活は子供の扶養によって支えられることが多かった。

扶養される親は、他方で住宅などの資産を子供に残す。もちろん、資産は扶養の直接の対価として渡されるものではない。しかし、結果的にみれば、扶養と遺産は対応していたと考えることができる。実際、自営業などの場合には、引き継いだ店舗などの資産が生み出す所得で親を扶養することが一般的だろう。あるいは、資産を売却して現金化し、それを扶養の財源とするケースもあったろう。

ところで、社会保障制度は、退職後の人々の扶養を、家族単位で行なうのでなく、社会全体で行なうこととした。そうであれば、扶養の「対価」である親世代からの資産の移転も、社会化すべきであろう。つまり、相続を家族単位で行なうのでなく、社会全体で行なうべきである。これは、相続税率を一〇〇%にすべきことを意味する。しかし、現在の制度は、こうはなっていない。相続は社会保障制度が充実される以前と同じく、家族単位で行なわれている。

したがって、社会保障制度が導入される以前と比較すると、相対的に有利になったのは、多額の遺産を受ける可能性のある人々である。親の扶養を家族内で行なった場合には受け取る資産がその分だけ減少していたはずだが、そうはならない分だけ受け取り資産が増加するからである。福祉社会とは、所得の低い人々を救う社会であると一般に考えられている。そうした側面があることは間違いない。しかし、老後の給付に関する限り、相続税の強化をともなわない福祉社会は、多額の遺産を期待できる人々に有利に働くのである。このことは、一般にはほとんど認識されていないことなので、強調する必要がある。

2015年7月9日木曜日

価格変動リスク

このような経営は、継続的に利益をもたらす例外的な少数を除けば、プロたちを不安定な状態におき、会社への献身や忠誠心を失わせる。また例外的に利益を生むプレーヤーにしても、リスクを過剰にとりがちである。

たびたび繰り返すが、七五年の委託手数料自由化を契機とする規制緩和の推進、巨大な機関投資家の出現、国際化の進展などで、米国の証券業界の競争が激化し、その収益構造は大きく変わった。伝統的な株式や債券の引受や売りさばき業務、ブローカー業務などの収益性が低下してきたのである。

たとえば引受業務では、先でもふれたように、証券発行に関する一括登録制が導入され手続きが簡略化されたため、迅速な発行が可能となったが、反面、募集される全証券を買い取って自己の在庫とし、その後に販売するという買取発行制度を生んだ。流通市場でも、機関投資家との取引では、複雑・巨額な注文を迅速かつ的確に執行する能力が競争の鍵となってきた。

伝統的な引受業務は、このように、資本を喰い、価格変動リスクにさらされるようになったため、取引量は増えても、負担リスク調整後の収益性は低下してきていた。そのため、投資銀行は、伝統業務以外の新しい分野、すなわち自己勘定での証券売買や裁定取引、資産担保証券やデリバティブを組み込んだ新商品の開発と販売、新興国市場の開拓などで、新たな収益機会を追求せざるを得なくなった。

投資銀行には、いま一つ、企業の合併・買収業務という高収益をもたらす伝統的な業務があった。こちらは、助言先の顧客が買収資金調達のために被買収企業の資産や将来のキャッシュフローを担保とする借入を行ったり、ジャンク債の発行、資産の売却を行う際、時には単なる斡旋にとどまらず自己資金を投じてこのような取引に介入する、いわゆるマーチャントーバンキング業務も行う。こちらも高収益、ハイリスクの業務である。

2015年6月9日火曜日

あまりに理想に走りすぎた

「シャウプ勧告」は、富の集中を抑えるため、富裕税と並んで相続・贈与に関しまったく新しい税金の導入を勧告した。簡単に云うと、従来から別々に存在していた相続税と贈与税の二つを一本化し、取得税(accession tax)あるいは継承税(succession tax)に統合しようというものである。「シャウプ勧告」の中にはいくつも新税、あるいは珍税に類するものがあったが、この取得税もどちらかというとこの構想に近いものがあった。取得税は、特定の個人が受領する遺産と贈与の累積額に応じて課税される累進税である。

体的には、遺産または贈与を受けたとき、それ以前に受領した遺産、贈与の課税総額にそれを加え、現行税串を適用して税額を算出する。同時に、従前からの累積総額に対しても現行税率で税額を算出し、二つの税額の差額が今回納税すべき取得税となる。この新税創設の主たる狙いを、「シャウプ勧告」は「根本において不当な富の集中蓄積を阻止し、併せて国庫に寄与せしめることにある」と断じている。取得税はまた、相続税と贈与税とを組み合わせたものよりメリットが大きい点が強調された。税率を一本にすることにより課税がより簡素になるし、更に生前の贈与と死後の遺贈とを使いわけ租税回避を図ろうとする行為を阻止できる。

つまり取得税は、簡素で中立的な税金として登場したわけである。従来、相続税の最高税率は60%であったのに対し、所得税は85%とはるかに高かった。取得税の採用にあたり、「シャウプ勧告」では両者の関係はむしろ逆になるべきだと指摘している。その理由は簡単で、次の二点に要約しうる。一つは、特定の個人に富を集積させないようにするために、所得より重い負担が必要である。もう一つは、高い税率を課しても所得税のケースより生産あるいは労働意欲を阻害しない。以上のような考えにもとづき、取得税は15万円の特別控除をした後、総累積額の限界的な超過分に対し、25~90%の14段階に及ぶ累進税率が適用されることになった。同時に勧告された所得税の20~55%(8段階)の累進税率に比べると、はるかに厳しいものであった。

もちろんこの取得税には、特別控除のほか基礎控除、扶養控除、未成年者控除などのいくつもの控除が認められ、富の集中排除と主張しつつ税負担の適正化には配慮していた。1950年にこの勧告にほぼ忠実な相続税が、わが国税制に登場した。しかしこの一体化された新しいタイプの相続税つまり取得税の運命も、1953年までであった。施行して税務当局が突きあたった税務執行面の壁は予想外に大きかった。取得税は、いうなればある特定の個人に対し生涯課税を要求するものである。かくして何十年にもわたり、相続あるいは贈与に関するデータを個人ごとにすべて保存せねばならない。転勤などで所管の税務署が替わると、もはやお手上げという状況が続出した。かくして理論通りに累積課税は機能せず、実施後三年で幕を閉じることになった。あまりに理想に走りすぎたというべきであろう。

2015年5月14日木曜日

ソ連の石油政策

ソ連の石油政策は的確に指摘されているように、世界の石油需給・国際金融などに深い連関を有している事実である。七二年のソ連の穀物大量輸入は、一次産品市況の高騰から資源インフレ・ドル減価の引き金を引き、OPECの第一次石油ショックを誘発したと考えられ、さらに産油国の「反乱」を主導したのはリビアなどの親ソ派アラブ強硬派であった事実。

第二次石油ショック(七九~八〇年)後のOPECカルテル支配力の低下を加速したのは強硬派の安売りであるが、これは八二年末のソ述のウラル産原油の安値輸出攻勢に直面したのが真囚である。このように原油価格支配力に影響を与えうる力をソ連はもっているが、西側への活発化する石油輸出代金は農産物・ハイテク技術・プラント輸入代金および東欧諸国支援に費消され、資金供給源としてのソ連は国際金融上あまり重要ではない。

しかしソ連は、欧州にネットワークを張る直営銀行によって、むしろ逆に国際金融上は常に「借り手」である。その意味ではソ連は国際金融市場では多重債務国化しつつあるが、石油に関しては石油資源・生産大国たる事実、アラブ強硬派との政治的密着度が高いこと、有事には限界生産および供給国として戦略的・機動的に石油市況と中東諸国政治とに影響力を自由に行使できる点を看過してはならないであろう。

2015年4月9日木曜日

人権意識の欠如

これはホラー映画の一場面でもなければ、大昔の怖い話でもない。今からたった40年前の1968年、文化大革命と呼ばれた頃の中国、広西省(現・広西チワン族自治区)で、実際に起きた「食人リンチ」の一場面である。「拝金主義」「権力の腐敗」「貧富の格差」「人命の軽視」「人権意識の欠如」。日本のメディアや識者が、昨今中国で多発する「とんでもない事件」の背景を語る際に、決まって用いるこれらのキーワードも、よく見ると、表層的な現象を語っているに過ぎない。むしろ、こうした「食人リンチ」が象徴する、わずか40年前の地獄こそが、「拝金主義」や「人命の軽視」といったキーワードが示す現象の「根」であり、毒食を生み出す中国社会の病の「根」だといっても過言ではない。

アメリカへ亡命した中国人作家、鄭義による衝撃のルポルタージュである『食人宴席』には、全編にわたって、冒頭のように凄惨な「食人リンチ」の光景が生々しく綴られている。そして、人間の物心両面の貧しさの極致とでもいうべき世界が描かれている。加害者、被害者双方の体験告白があまりにもリアルなために、かえって、読んだ情景を頭の中で絵に描くことが難しいほどである。「想像を絶する」とは、こういうことをいうのだと初めて実感した。そして、読後しばらくは、ひとつの疑問が頭の中を支配した。人間はこれほど残虐になれるものなのだろうか? 筆者の鄭義も、繰り返し自らに問うている。「自分もその場にいたら、この人食いに加担しただろうか」と。実は、「食人」自体は、中国の歴史上、珍しいことではない。古来、「敵の肉を食らい、しやれこうべを杯にして酒盛りをした」との武勇伝や、人肉に興味を示す王に、料理人が自分の子を煮て献じた、などの「美談」は枚挙に暇がない。

2015年3月10日火曜日

為替相場への三年ぶりの協調介入

アメリカの雑誌「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」の98年6月号に、日本の経済問題を話し合う各国蔵相代理会議の模様を伝える記事が載っていた。円・ドル関係は、95年を境に円安・ドル高に転じ、98年の春からは円か1ドル=130円から150円を窺うまでに急落、為替相場への3年ぶりの協調介入が行われることになった。

この介入については、過度の円安が中国人民元の切り下げを招き、再度のアジア通貨の混乱から世界恐慌にも波及しかねない、といった大義名分が掲げられていたが、多くの日本国民が承知しているように、実態は、日本政府の要請に、日本・アジアの株安のウォール街への波及を恐れたアメリカが、日本の恒久減税など、さまざまな条件を付けて応じたという性格の会議であった。

特集記事でさっそくこの会議を報じた同誌の誌面はすこぶる刺激的で、太平洋戦争の終戦時、昭和天皇がマッカーサー将軍を訪問した折の、あの並立写真が掲げられている。しかも記事には、日本は通貨危機に見舞われたアジア諸国と同じように、現在、経済的には占領状態に置かれており、サマーズこそはマッカーサー、これからはアメリカ財務省がGHQよろしく日本の銀行を監督する、といった状況が解説されていた。

クリントン政権の仮借のない円高攻勢から、3年も経ないうちに、日米間のマネー関係は急転回していた。パイプの細っていたジャパン・マネーの対米流人は、ふたたび増勢に転じ、アメリカが、経常赤字を埋めたその余剰資金をもって海外投資をさかんに行う、あの80年代のパターンもまた顕著に再現されている。

ここにいたる経緯をひとまずふり返っておこう。外為市場は、95年に入ってなお続く、クリントン政権の対決的な対日姿勢を眺めていた。自動車部品の購入増を求めるアメリカ側に「数値目標は受け入れられない」と、これを拒否する日本の姿勢は変わらず、アメリカ通商代表部は「交渉期限」の6月末に向けて、5月には通商法301条に基づく制裁を予告した。

高級車の対米輸出に100%という禁止的関税を課すというもので、日本の自動車メーカーにとっては大打撃である。「数量要求をのまなければ、為替で調整だ」という、クリントン政権を代弁するかのような在日外国人エコノミストの発言も見られた。

こうした状況のなかで円は急騰、年初には1ドル=100円程度だったものが、95年4月にはついに80円を割った。競争力がもっとも強いトヨタやソニーでも採算点を割りかねず、他の一般日本企業には対応不可能な水準である。アメリカは1ドル=50円を次の標的にしているといった風説も流れたが、しかし、当時のこうした評論は、ドルが対マルクでも下落して全面安の様相を示したことを無視したものであった。

そこで局面は急転換する。95年四月のG7は「相場の変動を秩序ある形で反転させることが望ましい」ことを声明し、これを受けて各国は協舞介入に入る。8月には、榊原(大蔵省国際金融局長・当時)とサマーズ(米財務副長官)の日米連携プレーともいわれた再度の大規模な介入が行われ、九月には1ドル=100円台を回復、その後もドルはジリ高となり97年には110円を超えた。

この急転の背景には、幾つかの事情が介在していた。一つには、アメリカが、対日通商要求を迫るカードとして、円高の限界を認識したということもあったであろう。95年早々、じつはクリントン政権の内部で、通商強硬派から金融・市場重視派へのパワー・シフトが進んでいた。この年の1月、金融市場に冷たいロイド・ベンツェン財務長官に代わって、ウォール街出身(ゴールドマン・サックス証券)のロバート・ルービ
ンがその椅子に着いた。

ルーピン新長官の初仕事は、さすがウォール街出身だけあって、総額500億ドルというメキシコへの金融支援策のとりまとめであった。82年から10余年を経て、メキシコでは94年の4月からふたたび波状的に資本逃避が起こり、ペソや証券市場が暴落を続けていた。アメリカは、メキシコとの「特殊な関係」にかんがみ、また自らもこれに巻き込まれる危険性を案じて、乏しい財政事情のなかから100億ドルを拠出し、180億ドルはIMFへの支出「命令」などでようやく支援策を組成した。こうした状況では強いドルこそが求められる。

もっとも、相対的ドル高へとアメリカの通貨政策を転換せしめた陰の主役は、じつはクウェートやサウジアラビアなど産油国の動向であった。アメリカとやはり「特殊関係」にあるこれら王制産油国さえ、ドルの暴落に耐えかね、石油取引価格の「ドル建て」離れの動きを見せていたのである。

こうなると、ドルの信認低下は致命的で、相対的に強いドル以外にアメリカの選択肢はなかった。ルーピンは、財務省長官に就任するにあたって、為替については自分だけが発言者だと明言して、通商強硬派を牽制し、また、毎週木曜日に個人的に朝食をともにするなど、グリーンスパンFRB議長との信頼醸成にも配慮を示していた。

日米自動車協議については、トップのトヨタを軸に、日本側メーカーが米国内で生産を拡大する、といった日本側の「自主計画」を評価する形で、まがりなりにも決着したため、対日圧力をかける根拠も薄れていた。こうした環境のなかでは、通商派のパワーは、相対的に低下せざるを得ず、結局、カンターは第二期クリントン政権には加わらなかったのである。

このようにして10年に及ぶ超勢的円高の時代は終わりを迎えることになった。降ってわいた相対的円安は、ドル資産の価値を少々戻し、輸出産業に幾ばくかの競争力を付与したかもしれないが、国内消費の低迷には何ら有効打とはなり得なかった。巨額の不良債権を抱え、長年の円高攻勢で体力を疲弊させた日本経済にとっては、むしろ株安と連動する悪循環を招く結果になってしまった。

2015年2月10日火曜日

世界に例をみない「悲劇の島」

沖縄県が日本の総面積に占める割合は0.6パーセントだが、在日米軍基地(専用施設)の75パーセントが、この小さな一県に集中している。「沖縄の中に基地があるのではない。基地の中に沖縄があるのだ」といわれるほど、沖縄は米軍基地の過密地帯になっている。

同県の面積の11パーセントは米軍基地によって占められており、沖縄本島だけだと20パーセントに達する。人口百30万人の島に駐留する米兵は2万7千人。欧州のどの国を見ても、こんなに外国基地だらけの州や県は一つも見出すことはできない。

沖縄に米軍基地が無闇矢鱈と多いのは、太平洋戦争末期に沖縄に侵攻した米軍が、日本軍に勝って全島を占領、日本が降伏する前から生き残った県民を各地の収容所に閉じ込め、「銃剣とブルドーザー」で土地を奪って次々と基地を作ったためだ。

「陸戦の法規・慣例に関するハーグ条約」(1907年)は戦争中といえども私有財産の没収を禁じており、たとえ軍の必要で収用しても、対価の支払いを義務づけている。

沖縄での米軍の有無を言わさぬ土地収用は、明らかな国際法違反であった。日本の国土で戦われた唯一の地上戦の死者は、日本軍約九万人、米軍1万数千人にのぼったが、非戦闘員の沖縄県民も全体の三分の一に当たる十数万人が犠牲になって、沖縄は「悲劇の島」になった。

2015年1月13日火曜日

財政破綻はあるのか

常に期待が実現されるわけではない。期待にまったく反することが起きたとき、強い情動的な反応が引き起こされ、マインドの転換がもたらされる。楽観的なマインドが、急激に慎重になることもあれば、悲観的なマインドが、急に明るくなることもある。これは、「期待反転の法則」と呼べるだろう。期待を裏切るほどインパクトのあるサプライズが起きない限り、心理的慣性の法則により、なかなかマインドは変化しない。デフレがなぜ起き、それが持続してしまうのかを理解するうえで、心理的な要素も大きいと考えられている。平成二十二年(二〇一〇)度の年次経済財政報告も、物価の基調を決定する要因として、需給ギャップや輸入品の価格動向とともに、人々の物価予想を挙げている。多くの人が、まだ物価や賃金は上がるよりも下がると思っていると、実際そうなってしまうのである。そこから脱出するためには、期待を反転させる、インパクトのある政策が必要なのである。

未来に対して悲観的になり、収入が減りそうだとか、株や上地が値下がりしそうだとか、将来の年金は金額が減らされそうだといった不安は、将来への期待自体を萎ませ、守りに入らせる。日本は人口減少段階に入ったので、需要が低迷し、低成長にならざるを得ないという考えに囚われてしまうと、もうそこからデフレが始まるのである。ネガティブな期待が、その期待を実現し、さらにデフレからの脱出を困難にしていく。あまりにも長くデフレに陥りすぎたために、悲観的な見方からいっそう抜け出せなくなっている。医療や年金に対する不信が増幅するような事態が続いたことや、虐待や少年事件などの社会問題が噴出したことも、将来に対する悲観的な見方を強める結果になっただろう。

そうしたデフレ思考を払拭することが、日本国民のマインド全体を変え、希望のある社会を取り戻すのに不可欠である。そのためには、デフレときっちり決別することを示す明確なヴィジョンと政策が必要なのである。将来への不安という意味で、その最たるものは、将来、国家財政が破綻するのではないかという疑心暗鬼である。財政破綻が起きれば、医療、介護などのサービスが低下することは無論、年金も大幅に減らされてしまうのではないか。そういった不安が、国民の間には根強くはびこっている。それどころか、その危機がもう間近に迫っているような発言や著作に出会うことも多い。

そうした不安が現実味を帯びるようになったのは、アイスランド危機やギリジャーショックといったソブリン危機が相次ぎ、国家破産という事態が決して絵空事ではないことを思い知らされたことも影響している。国内でも、夕張市が財政破綻し、財政再建団体に転落するとともに、市民サービスの大幅なカットと増税が市民にのしかかっている。そうした報道に触れ、ますます財政破綻というものが、ありありと迫ってくるように感じられているのである。私自身、そうした危機感を強く感じていた。危機の根拠としてよく言われるのは、公的債務の合計が、このまま増え続けると、二〇一五年頃には国民の金融資産を上回ってしまうということである。国民資産を上回る債務を抱えることになり、信用力が低下し、このままでは近いうちに国債の暴落が起きるという。

一見、非常に説得力があり、多くの人が納得するだろう。よく調べてみるまで、私もその一人であった。だが、実際に調べてみると、確かに好ましい状態ではないものの、二、三年後に国債の暴落が起きて、ギリシャのようになってしまうような状態では、およそないのである。公的債務が国民資産を上回ってしまうと、あたかも「債務超過」の状態に陥るという議論は、当てはまらないのである。その点で、多くの経済の専門家が指摘していることは、同じ財政赤字といっても、アメリカやギリシャにみられた通常の財政赤字とは、性質が全く違うということである。通常、財政赤字の国では、経常収支(外国との全体の収支)も赤字であることが多く、その赤字分を海外からの借り入れで穴埋めしている。そのため、財政赤字が増えていけば、対外債務も増えていく。つまり、毎年、GDPの何%かに相当するお金を外国から借金して、国民の生活を維持している状況である。