2014年9月9日火曜日

倫理と宗教

一方では、「カッサンドラ」で終わるのは御免だと思う有識者もいるにちがいない。また、自分の考えを国の政策として現実化したいと考える有識者がいたとしても、それはそれで「知」に一生を捧げると決めた人にとっての選択肢の一つではある。そしてこう考える人には、マキアヴェッリの次の一句が参考になるかもしれない。「武器をもたない予言者は、いかに正しいことを言おうが聴き容れてもらえないのが宿命だ」武器とは、この場合は聴くよう他者に強制できる力のことだから、権力と言い換えてもよい。つまり、「カッサンドラ」になりたくなかったら、権力をもつべきだと言っているのである。意に反して一生を「カッサンドラ」で終始してしまったマキアヴェッリの、自らの体験から得た苦い教訓でもあった。

それでこの場合の権力だが、格好な具体例は竹中平蔵氏ではないかと思っている。つまり、審議会の一員であるよりも、直接に公的に国政にタッチするほうを選択した例として、彼の行いつつある政策が真に日本のためになるかという問題は、ここでは措く。それよりも、カッサンドラか竹中平蔵か、とでもいう感じで有識者が問われている、生き方の例としてである。というわけだが、審議会常連の諸先生方は、どちらを選ばれるのであろうか。

日本では、昨今とくにいちじるしい倫理の低下は、日本人が宗教をもっていないがゆえだと思っている人が多いようである。そして、そう考える場合の「宗教」とは、キリスト教やイスラム教に代表される一神教こそが宗教の名に値するのであって、それ以外の信仰は宗教ではなく、「それ以外」が多い日本人は宗教心をもっていないと言いたいらしい。この想いが、一神教を信ずる国や人への劣等感の一因になっているようだ。

ならば、一神教タイプの宗教が存在しなかった時代には倫理も存在しなかったはずだが、それはまったくの嘘である。古代のギリシアもローマも多神教だったし、日本だって「八百万」が正確な数かどうかは知らないが、多神教でつづいてきた。それでいて、倫理がなかったとは言えないだろう。また、一神教の宗教を信じていさえすれば倫理は保証されるというのも、キリスト教とイスラム教の過去と現在を見ればおおいに疑問である。私の住まいは、ローマの街中を流れるテヴェレ河の東岸にある。家の前を流れるテヴェレの対岸、つまり西岸には、キリスト教カトリックの本山でもあるヴァティカンがある。その聖ピエトロ広場に集まった信者たちに、ローマ法王が短いスピーチをし祝福を与えるのは、日曜ごとにくり返される恒例の行事になっている。

信者といっても観光地化したローマのこと、上地っ子よりも外国人のほうが断じて多い。私もイタリアに来た当初は好奇心もあって何度か参加したが、その後は、テヴェレ河を渡るだけなのに無縁になった。それでもイタリアはキリスト教国なので、お昼のテレビニュースでは、その朝に法王が何と言ったかは報道する。それを見、聴きながら思う。なぜ二千年もの間、同じことをくり返して言えるのだろうか、と。ローマ法王が信者に向って説くことのほとんどは、私のようなキリスト教を信じていない者から見ても正しいのである。イエスーキリストの教えに忠実な生活をせよというのには無関係でも、平和が人類にとっての最上の価値であり、戦争は悪であるがゆえにやめるべしというのには双手をあげて賛同する。