2012年8月1日水曜日

自由と平等はいわば政治の永遠の課題なのである。

民主党のいうように、さまざまな規制を加えていって社会的な平等を実現した場合はどうなるか。極端な貧困者や社会的な弱者は、国家の手によって救済されていく。一見平等な理想社会が出現するかに思えるが、それがいきすぎると個人のやる気や、自由奔放に夢を描いて行動するという活力が社会から失われていく。

そして何をするにも「お上」や「ビッグブラザー」の鼻息をうかがわねばならないという、息の詰まるような閉鎖的な社会が出現する。かつての日本の国鉄や、ソ連邦などは平等主義のなれの果ての姿であったろう。

われわれは「自由と平等」というふうに、簡単にこの両者を並べてひとまとめにしてしまいがちだが、実は重大な矛盾をはらんだ二つの概念なのである。完全な自由と完全な平等の共存はむずかしいという問題は、すでにギリシア時代に指摘されており、以来二〇〇〇年余を経た今日でも、矛盾を克服するための決定的な解決策は出ていない。自由と平等はいわば政治の永遠の課題なのである。

アメリカの共和党と民主党ぱ、この解決のいまだなされない問題を抱えたまま、いわば永遠の対立を続けている。社会政策は実施すべきである、いや実施すべきではないという論議をくり返し、政権をとった時には自分たちの信念を貫こうとし、野党に回った時には体を張ってでも時の政権に対抗する。

一見泥試合のように見える政争をくり返しながら、ある時には右に、そしてまたある時には左にと政治を動かしている。アメリカの政治は決して完成されたものではない。ギリシア時代以来の根源的な矛盾をかかえたまま、くり返される政争のなかで揺れ動き、現在進行形で走り続けるという未完の動体なのである。