2014年11月10日月曜日

正義はタダではないのですよ

そういう立派な弁護士だけに頼っていていいのか、ということを。本当に困っている普通の国民を助けるために、それこそ仙人のような弁護士でなければならないとしたら、結果として、ごく一部の人にしか裁判は利用できないものになるでしょう。

ほんのごく一部の人しか、骨の髄まで清廉な人はいないのが現実だからです。美を重んじる日本の文化では、こういう話をするのは、なんだか格好が悪くて、卑しい感じさえして、私も気が引けます。しかし、あえてそれが現実だから、言いたいのです。

普通の多くの人々は、家族もあるし、人並みに稼がなければ生活できないという現実があるのです。とても付き合いきれないような裁判しかなかったら、裁判が社会のすみずみで正義や権利を実現するために機能することはありません。「怨念」だけに支えられた被害者の運動などというのは、もう限界に来ている、という声もあります。

それではどうしたらいいかといえば、妙なきれいごとで裁判の理想を目指すのではなく、「人間は弱いものだ」、または「人間は算盤勘定も考慮に入れて動くものだ」ということを前提とすべきでしょう。そして、現実の日本の社会が、とりもなおさず資本主義社会であるということを直視した裁判のあり方を考えるべきではないかと思うのです。

先日、新聞で、オウム裁判の刑事弁護人に何億円も払っている一方で、被害者への弁償は進んでいないといった記事を読みました。確かに、刑事裁判で弁護士に支払っている金額は何億円とあるわけです。これは、いわば加害者のために使われているお金だといえるでしょう。