2014年12月10日水曜日

実質的「機会の平等」

こうした仕事は、残念ながら中程度の熟練労働を幅広く生み出さない。能力やスキルの違いによって、何倍、何十倍もの生産性差異、すなわち所得格差を生み出してしまうような仕事だからだ。比較的、国際競争にさらされにくいサービス産業においても、生産性⊇・所得水準)を高めようとすると、専門知識、言語などの技能、接客能力、あるいはITなどの技術を使いこなすスキルが求められる。この傾向は、医療や介護など、今後、成長が期待されるサービス産業分野では顕著になっていく。やはり真剣に職業訓練、すなわちリアルな仕事の役に立つことをしっかり勉強しないと賃金は上がらないのだ。がっての大量生産組み立て産業のように、設備集約型と労働集約型の中間業態の産業が、放っておいても厚みのある中産階級を生み出した時代はもう返ってこないのである。

結局、生産性通りに賃金を払えば、自然に格差は拡大するし、それを否定すれば企業として競争力がなくなる。結局、こうした分野に耐えうる能力水準、それも国際競争の中で戦い抜ける能力を一人でも多くの日本人が身につけることが、ここでの根本的な格差対策となるのだ。やはり高等教育、大学教育は大事なのである。それを精一杯やったうえで、格差が世帯の中で世代を超えて再生産こ・格差の階級的固定化)されないように、所得や教育機会の再分配を有効に行うことが、最大限の格差対策である。逆に、気をつけておくべきは、決して所得再分配政策で分厚い中間層を生み出せるような幻想を持ってはいけないということだ。政策にもイデオロギーにもそんな力はない。

人は格差そのものに絶望するのではない。格差が固定化すること、すなわち既得権が絶対化(階級化)することに絶望し、そういう社会は希望を失って不健全なものとなっていく。厚みのある中開層は、究極的には人々の発意と、正しい努力と、それを勇気づけ、可能にする(前世代で生まれた格差を次の世代に固定化させない)社会システムからしか生まれない。そこでの主役はあくまでも自助原理、共助原理に基づく実質的な「機会の平等」であって、公助原理による「結果の平等」は補完的な存在にすぎないのだ。

実質的「機会の平等」何を規制し何を緩和するのか。じつは実質的な「機会の平等」の確保においても、政府がやるべきことはたくさんある。その典型が、既得権者の既得権者による既得権者のための規制を改革することだ。新しいアイデア、革新的な方法で、より安くより安全な製品やサービスを提供しようとするプレーヤーに門戸を開放することで、新しい需要が生まれ、新しい雇用が創出される。新たなビジネスモデルのほうが、従来のものよりも生産性が高ければ、賃金も上昇している。

その一方で、安易な値下げ競争、過当競争が、かえって品質や安全性の低下を生まないように、安全規制などのいわゆる警察的な規制は強化する必要もある。自由化は、商道徳を無視して、その場限りの「やらずぼったくり」なプレーヤーがゲームに参加してくるリスクを大きくする。最近起きた高速バスの事故などは、ここに問題の根がある。警察規制だから、厳格なルールとそれを破った場合の厳罰、そして取り締まり体制の強化が前提である。こうして、しっかりした警察的規制が機能して初めて、継続的に顧客や社会の付託に耐えうる財やサービスの提供を行う事業者と、従業員の人件費を削ることで、その場限りの安易な金儲けをたくらむ事業者との間の「実質的」機会の平等が実現する。

2014年11月10日月曜日

正義はタダではないのですよ

そういう立派な弁護士だけに頼っていていいのか、ということを。本当に困っている普通の国民を助けるために、それこそ仙人のような弁護士でなければならないとしたら、結果として、ごく一部の人にしか裁判は利用できないものになるでしょう。

ほんのごく一部の人しか、骨の髄まで清廉な人はいないのが現実だからです。美を重んじる日本の文化では、こういう話をするのは、なんだか格好が悪くて、卑しい感じさえして、私も気が引けます。しかし、あえてそれが現実だから、言いたいのです。

普通の多くの人々は、家族もあるし、人並みに稼がなければ生活できないという現実があるのです。とても付き合いきれないような裁判しかなかったら、裁判が社会のすみずみで正義や権利を実現するために機能することはありません。「怨念」だけに支えられた被害者の運動などというのは、もう限界に来ている、という声もあります。

それではどうしたらいいかといえば、妙なきれいごとで裁判の理想を目指すのではなく、「人間は弱いものだ」、または「人間は算盤勘定も考慮に入れて動くものだ」ということを前提とすべきでしょう。そして、現実の日本の社会が、とりもなおさず資本主義社会であるということを直視した裁判のあり方を考えるべきではないかと思うのです。

先日、新聞で、オウム裁判の刑事弁護人に何億円も払っている一方で、被害者への弁償は進んでいないといった記事を読みました。確かに、刑事裁判で弁護士に支払っている金額は何億円とあるわけです。これは、いわば加害者のために使われているお金だといえるでしょう。

2014年10月9日木曜日

「行政改革」のスタート

国会や霞夕関の官庁街から徒歩で十分ほどだ。虎ノ門のビジネス街にメタリックーゴールドの十一階建ての第十森ビルがある。ビルの正面一階の右隅に新橋警察署の交番があり、白塗りの警察官用の自転車が止めてあった。

一九九八年七月二十一日の朝、白いワイシャツに黒や紺の背広姿の男たちがビルの三階と四階に集まってきた。女性の姿も交じっている。四階の受付の入り口に「中央省庁等改革推進本部事務局」という看板、かかかっている。

日本には主要な法律が千七百本ほどある。この事務局で、その内の千本内外の法律を書き変え、数十本の法律をあらたにっくる大規模な作業が行われる。それは、ある意味で日本をガラッと変える可能性を秘めている。

橋本龍太郎首相(在任、一九九六年一月~一九九八年七月)が唱えた「六大改革」のうち同首相がもっとも力をいれていた「行政改革」が実際に動き出したのである。現在の二十二省庁ある中央官庁組織を一府十二省庁に半減することを目玉にした橋本行革の本格的な準備作業は、提唱者が同月十二日の参議院選挙で自民党が過半数を大幅に割り込む敗北を喫して辞意を表明した直後にスタートする皮肉なめぐり合わせになった。

この事務局は、橋本首相の後継者である小渕恵三首相を本部長として全閣僚を本部員とする行政改革推進本部の実働部隊である。お目つけ役として、今井敬経済団体連合会会長(新日本製鉄会長)ら九人をメンバーとした顧問会議が控えている。

事務局員は、一九九八年十一月現在で百二十八人である。そのうち民間人は十六人にすぎない。圧倒的に各省庁からの出向者が多く、官僚主導である。ちなみに河野昭事務局長は総務庁行政管理局長から横滑りした。出向者たちは「虎ノ門勤めは約三年」と言い渡されてやってきた。この行政改革による新体制への移行開始は二〇〇一年一月となっているからである。

2014年9月9日火曜日

倫理と宗教

一方では、「カッサンドラ」で終わるのは御免だと思う有識者もいるにちがいない。また、自分の考えを国の政策として現実化したいと考える有識者がいたとしても、それはそれで「知」に一生を捧げると決めた人にとっての選択肢の一つではある。そしてこう考える人には、マキアヴェッリの次の一句が参考になるかもしれない。「武器をもたない予言者は、いかに正しいことを言おうが聴き容れてもらえないのが宿命だ」武器とは、この場合は聴くよう他者に強制できる力のことだから、権力と言い換えてもよい。つまり、「カッサンドラ」になりたくなかったら、権力をもつべきだと言っているのである。意に反して一生を「カッサンドラ」で終始してしまったマキアヴェッリの、自らの体験から得た苦い教訓でもあった。

それでこの場合の権力だが、格好な具体例は竹中平蔵氏ではないかと思っている。つまり、審議会の一員であるよりも、直接に公的に国政にタッチするほうを選択した例として、彼の行いつつある政策が真に日本のためになるかという問題は、ここでは措く。それよりも、カッサンドラか竹中平蔵か、とでもいう感じで有識者が問われている、生き方の例としてである。というわけだが、審議会常連の諸先生方は、どちらを選ばれるのであろうか。

日本では、昨今とくにいちじるしい倫理の低下は、日本人が宗教をもっていないがゆえだと思っている人が多いようである。そして、そう考える場合の「宗教」とは、キリスト教やイスラム教に代表される一神教こそが宗教の名に値するのであって、それ以外の信仰は宗教ではなく、「それ以外」が多い日本人は宗教心をもっていないと言いたいらしい。この想いが、一神教を信ずる国や人への劣等感の一因になっているようだ。

ならば、一神教タイプの宗教が存在しなかった時代には倫理も存在しなかったはずだが、それはまったくの嘘である。古代のギリシアもローマも多神教だったし、日本だって「八百万」が正確な数かどうかは知らないが、多神教でつづいてきた。それでいて、倫理がなかったとは言えないだろう。また、一神教の宗教を信じていさえすれば倫理は保証されるというのも、キリスト教とイスラム教の過去と現在を見ればおおいに疑問である。私の住まいは、ローマの街中を流れるテヴェレ河の東岸にある。家の前を流れるテヴェレの対岸、つまり西岸には、キリスト教カトリックの本山でもあるヴァティカンがある。その聖ピエトロ広場に集まった信者たちに、ローマ法王が短いスピーチをし祝福を与えるのは、日曜ごとにくり返される恒例の行事になっている。

信者といっても観光地化したローマのこと、上地っ子よりも外国人のほうが断じて多い。私もイタリアに来た当初は好奇心もあって何度か参加したが、その後は、テヴェレ河を渡るだけなのに無縁になった。それでもイタリアはキリスト教国なので、お昼のテレビニュースでは、その朝に法王が何と言ったかは報道する。それを見、聴きながら思う。なぜ二千年もの間、同じことをくり返して言えるのだろうか、と。ローマ法王が信者に向って説くことのほとんどは、私のようなキリスト教を信じていない者から見ても正しいのである。イエスーキリストの教えに忠実な生活をせよというのには無関係でも、平和が人類にとっての最上の価値であり、戦争は悪であるがゆえにやめるべしというのには双手をあげて賛同する。

2014年8月12日火曜日

金融危機への財政解決法

十年前、東アジア金融の危機は、タイに始まって東アジア全体に拡大し、インドネシアではスハルト独裁政権の退陣につながり、ロシアやブラジルなどの新興市場にも打撃を与えたことを思い出してほしい。あのときの国際通貨基金(IMF)に、どんな印象をお持ちだろうか。人によっては、印象をなんら持っていないかもしれない。というのは、主に頭文字だけで知られている国際組織は、精彩のない存在とみなされやすいからだ。あるいは、韓国やタイなど各地で、IMFを非難したプラカードを掲げた、大規模で派手なデモを思い出すかもしれない。

私はジャーナリズムに従事しているので、思い出すのは別のイメージだ。それは、険しい顔つきで、腕組みをしているフランス人の写真なのである。このフランス人は、一九八七年から二〇〇〇年にかけて、IMFの専務理事を務めたミシェルーカムドシュ氏だ。インドネシア政府は、財政赤字を削減し、緊縮財政を実行することを条件にIMFから巨額の融資を受けたが、腕組みをしている場面は、その協定を行った際の調印式である。

この写真は、後に世間から、IMFの帝国主義的やり方を示す、悪名高いシンボルとみなされるようになった。その一、二年後だったか、私は、ジャカルタのインドネシア高官の事務所に、一九九七年から九八年の事態がいかに深刻だったかを思い出させるために、この写真が掲げられているのを見た。それは、IMFが問題解決に乗り出すときは、常に痛みを伴うものであり、何よりも予算削減を求められることを思い出させるのだ。

現在、富める国に金融危機が拡大している。アメリカが中心だが、英仏両国や他の欧州連合諸国だけでなく、ある程度地球規模でも影響を及ぼしている。その時期にIMFの同じフランス人の首脳が、世間を再び驚かせたのである。二〇〇七年、IMFの新専務理事となったドミニクーストロスカーンは、金融危機に際して、政府の歳出削減を条件とする、旧来のIMFの手法を放棄したようだ。すなわち、彼は、二〇〇八年一月下旬、ダボスで開催された世界経済フォーラムの場で、続いて一月三十日付『フィナンシャルータイムズ』紙上で、金融危機に対処するため、財政赤字を拡大し、さらに財政政策上のあらゆる手段を講じて、経済成長を促進するよう各国政府に呼びかけたのである。

これは驚くべき発言ではなかったかもしれない。なぜなら、ストロスカーン氏は、社会党出身のフランス元財務相で、フランス社会党には、財政赤字はよい結果をもたらすと信じる人が多くいるからである。彼は過去において、緊縮財政の考えを持つとみなされていたが、最も驚かされたのは、その発言のタイミングである。アメリカは景気後退に陥り、世界的な経済停滞につながると多く予測されているが、今のところそれが起きたという確固たる証拠はない。たしかに米国の失業率は悪化しているが、現在、わずかなト昇にとどまっている。

2014年7月19日土曜日

国際協力の第一の側面

このような考え方に対して、中央銀行の独立を守るためには、ドイツ、スイス流に通貨価値の番人に徹したほうがよいという意見もありえよう。しかし、両国の中央銀行も、実際には、銀行監督官あての民間金融機関の報告書を直接受け取って監督官に回付したり、監督官の状況判断に重大な注意を払っているという。わが国の場合、歴史的に両機能が併存してきたという現実がある。金融政策の円滑な運営のためには、決済制度を含め信用秩序が安定していることが望ましく、両方の役割を併有できるならば、併有したほうがよい。

また、信用秩序の番人といっても、監督するだけの銀行監督官と、平時の監督と並んで緊急時に「最終の貸手」として流動性を供給できる機能をもった中央銀行とでは、番人としての効用にも差がある。市場に安易な期待感を植えつけては困るが、緊急時に支援能力があると期待、信頼される中央銀行は、平時においても民間金融機関の協力(率直な情報提供など)を受けやすいであろう。私は日本銀行が二つの番人の役割を併有する現行体制を支持したい。

この場合、民間金融機関といえば、かつては銀行が中心であり、とくに大銀行に着目してその協力を得ておけばまず十分と考えられていた。しかし、最近では、日銀と直接取引関係のない中小の預金受入機関の経営不安が金融秩序全体をおびやかしている。また、金融の自由化に伴って、銀行等の預金受入機関と証券会社、投資銀行等との間の垣根が低くなってきており、いずれの経営問題も金融秩序に影響を与える可能性は決して少なくない。さらに、金融の国際化に伴って、各国の金融機関が他国にも進出しているほか、決済制度も自動化しかつ国際的な連携を深めているので、信用秩序としては、一国の信用秩序だげでなく、全世界の金融市場の秩序を考えなくてはならない時代となっている。

通貨価値の番人としての中央銀行は、BIS等を通じて、他国の中央銀行との間で、マクロ経済情勢についての意見や情報の交換だげでなく、時としては国際収支や為替相場に関連した資金援助を行うことも必要となるが、信用秩序の番人としての中央銀行も、各種の国際協力が欠かせない。

信用秩序の番人としての国際協力の第一の側面は、銀行監督である。各国相互に乗り入れている自国や他国の金融機関、それも銀行等預金受入機関だけでなく、証券会社や投資銀行についても、共通のルールを作ったり、相互に相手国に出張するまでして監督し合わなくてはならなくなっている。また、監督の対象となっている金融取引も、デリバティブなど新しい金融技術の発達に伴って一段と複雑になっている。

2014年7月5日土曜日

一村一品運動は実践である

一村一品運動については、県職員にも直接、説明の機会をもった。一村一品運動は行政主導ではなく、あくまで地域住民のイニシァティブによるものであるから、一村一品課もなければ、一村一品補助金もなければ、一村一品条例もない。これは今日まで変わらない。たまたま大分市にあるデパートの社長が、この運動を始めて一年後に、「運動の趣旨に感動しました」といって一億円を寄付してくれた。

これを一村一品基金とした。今日ではいろいろな方々からの寄付もあり、一億六二〇〇万円になっている。この基金の利息収入を運用して、一村一品奨励賞として、金賞(二〇〇万円)、努力賞(五〇万円)などをもうけ、努力している市町村の地域づくりのグループに差し上げている。税金ではないから何に使ってもよい。実際には、海外への研修や国内の視察、地元の公園建設など、有益に使われているようである。

一村一品運動は理論ではない。実践なのである。実践を通じて地域にやる気をおこさせる運動である。したがって、モデルを示さなければ具体的な理解が得られない。「ここの町ではこうした。だから人が増えたんだ、所得が伸びたんだ」という成果を示すのである。この手法は企業でもたいへん大事であると思う。部下に口で言っただけでわかるようなら、役職員はいらない。役職員は、いかに事例を多く知っているか、さらにどんなに困難な事態になってもこれまで学んできた経験から解決策を見出していけるかどうかによって価値(存在理由)が問われる。

そこで、一村一品運動によって地域が活性化された五つの事例をあげることにしよう。大山町、湯布院町は先に述べたが、ここではさらに詳しく述べる。梅・栗から、いまCATVI-大山町「本番行きますよ。五、四、三、二、一……」「今晩は。お茶の間ニュースです……」午後六時、定例のニュース番組が始まる。スタジオにスタ″フは六人。緊張の走る一瞬だ。ところが、民放のテレビ局とは少し勝手が違う。スタジオは町役場のなかにある。

大山町は、耕地面積が全体の一〇%に過ぎない小さな農山村である。その大山町は前述したようにムラおこし発祥の地。「梅・栗植えてハワイに行こう」のキヤッチフレーズで全国に名を馳せた。四一年に「第一回ハワイ観光団」を出発させ、これまで中高校生を含め、五〇〇人以上の町民がハワイでの生活を体験している。ほかに中国、イスラエルなどにも出かけており、パスポートの所持率も県民平均の約二倍に達している。いま、このムラおこしの町の役場専用スタジオから、町内全世帯に町独自のナマ情報を送っている。

2014年6月20日金曜日

グローバル公共哲学の大きな特色

また地球環境が脅かされ、人類の経済格差がますます広がり、国際犯罪も増加しているように思えます。このような事態に対処して、「人間の安全保障」(セン、緒方貞子)と呼ばれるような新しい包括的価値理念も登場してきました。こうした時代に対処するためには、一九世紀以降に顕著に展開されたような「ナショナルな公共哲学」では明らかに不十分です。たしかに、ナショナルな公共哲学は、植民地主義や帝国主義に抵抗する論理を展開したり、近代的立憲体制をつくるにあたって大きな役割を演じたりしました。その意義は、過小評価されるべきではないでしょう。しかし。それはまた、自国の外部の他者を敵と想定するような「閉ざされたナショナリズム」を幇助する危険性をつねにはらんでいます。

実際に、一九世紀後半から二〇世紀には、その危険が戦争となって発露しましたし、日本の場合は教育勅語や滅私奉公のイデオロギーが生まれました。今後の日本にも、さきで述べたように、過去の歴史に対する反省的な総括がなされない状態のまま。一国主義の閉ざされたナショナリズムへ向かう危険がないとはいえません。では、ナショナルな公共哲学から「グローバルな公共哲学」へ向かうべきでしょうか。それも危ういことのように思えます。なぜなら、そのことばは「イデオロギーとしてのグローバリズム」を連想させるからです。

現下の国際政治経済レベルでのグローバリズムは、アングロアメリカンースタンダードの支配を意味することが多く、「グローバルな公共哲学」では、そうしたスタンダードにもとづく公共哲学という響きを払拭できません。ひいては、「モノカルチュラルで均質な」
公共知が促進され、地球上の「諸地域の文化的・歴史的多様性」に関する公共知は、ないがしろにされてしまう恐れがあります。とはいえ他方、公共哲学は、人類が現在直面している諸問題に背を向けた「ローカリズム」や「文化的歴史的相対主義」に陥ることはできません。ローカリズムは局所的な事柄にのみとらわれた視野狭窄の思想です。文化的歴史的相対主義は、それぞれの文化ごとの価値理念が通約不可能で文化横断的な普遍性をもたないとする考えです。

これでは、ともに、地球的な公共善の創出を不可能にしてしまいます。それに対し、提唱するのは、諸地域の文化的歴史的多様性を顧慮しながら、また文化や歴史の多様なコンテクストに根ざしながら、同時に、平和、正義(公正)、人権、福祉、貧困、科学技術、環境、安全保障、文化財保護など、地球規模で対峙する必要のある問題を考えていく「グローカルな公共哲学」です。それは、ナショナルな公共哲学、グローバルな公共哲学、ローカルな公共哲学の限界を超える展望を呈示します。すなわち、一国史観や国民主義的文化論、均質な文化帝国主義や単線的進歩史観、文化的歴史的局地主義などの陥穿にはまることなく、「文化的歴史的多様性のなかで国家の枠組みを越えた人類の課題と取り組む」公共哲学として理解されなければなりません。

ここで、グローバルの言葉に含まれる「ローカル」という形容詞に秘められた意味を浮き彫りにしたいと思います。、いま手元にある英英辞典(『ロングマン現代アメリカ英語辞典』)をひくと、ローカルという形容詞が、「あなたが住む特定の場所や地域と結びついた」と定義されています。この定義をうけて、文化的歴史的に多様な負荷を帯びた「地域の」という意味と、各自が活動する「現場の」という二重の意味をローカルに付与することにしましょう。そのことで、それぞれの人間が生きる「地域性」と「現場性」を重視することを、グローバル公共哲学の大きな特色のひとつとしたいのです。

2014年6月6日金曜日

ほとんどの高血圧症は原因不明

なぜ高血圧症になるのかは、よく分かっていません。医学用語で本態性、特発性、原発性という病名がついているのは、原因がはっきりわかっていないという表現であり、大部分の高血圧症は原因がよくわかっていないので、本態性高血圧症と呼ばれています。本態性高血圧症が高血圧症の九五%以上を占めており、残りの五%弱は原因となる病気がはっきりしている高血圧症で、二次性高血圧症または症候性高血圧症と呼ばれています。

高血圧者の多い家系の存在は昔からよく知られています。また塩分のとりすぎ、肥満、運動不足、飲酒習慣なども血圧を上昇させやすい要因です。しかし、これらの要因がどの程度血圧の上昇に関与しているのかは明確ではなく、また一律ではありません。その意味では、高血圧症を独立の一つの病気と考えることには無理があります。その一例として、塩分を制限すると血圧の下がる人かいますが、下がらない人もいます。肥満者は一般に血圧が高いのですが、高くない人もいます。やせた人でも血圧の高い場合もあります。

したがって高血圧者の診療にあたってその人の血圧上昇にどの要因がどの程度関与しているかを判断するのは不可能です。高血圧症の発症に遺伝が関与していることは経験的にわかっています。親が血圧が高いと子供が高くなりやすいとか、脳卒中か多発している家系の人はその危険性が高い、などの報告か数多くあります。大まかな言い方をすれば、五〇%強か遺伝、残りの五〇%弱が環境要因で決まるとされています。

今から三〇年以上前に京都大学の岡本教授グループは血圧が高いラットを選択的に交配する実験を開始しました。一九六九年に十〇〇%高血圧になるラットを、一九七四年には一〇〇%脳卒中を起こすラットをつくるのに世界で初めて成功しました。この遺伝的に純系である高血圧ラットおよび脳卒中ラットの確立により、高血圧症および脳卒中の発症に遺伝子が関与していることが証明されました。この純系ラットにより、高血圧症や脳卒中を促進したり予防したりする要因を一つ一つ科学的に確認することが可能になりました。

2014年5月23日金曜日

中国に求められている穏歩

東アジアは、伸びゆく経済力を伸びゆくままに伸ばし、これを交渉力の源泉として、アメリカの安全保障上のコミットメントをいかに東アジアに引きとどめるか、議論すべきアルファであり、オメガがこれである。東アジアの未来のフロンティアが中国である、という洞察において大方の異論はあるまい。それにもかかわらず、東アジア経済論を主題としてきたために、中国それ自体を大きく取り上げることができなかったのは、いささか残念である。

「冒進」と「反転」の大きなサイクルをくりかえしてきたのが、毛沢東時代の中国であった。鄙小平の時代になって、そのサイクルの落差は縮まったとはいえ、サイクル自体はなおなくなっていない。しかし中国が、市場経済化と対外開放という、毛時代からすれば信じ難いほどに大胆で柔軟な挙にでて、東アジアにおける活性の貿易・投資ネットワークのなかに「ビルトイン」されつつあることはまぎれもない。

国際的封鎖体系のもとで、「冒進」と「反転」を、それが対外関係におよぼす影響など顧慮することなく、独善的にくりかえしえたような状況は、現在の中国にはもはやない。「冒進」と「反転」を引きおこせば、容易に癒すことのできない手ひどい傷を、中国経済が負わねばならないからである。中国の国際経済への積極的参入は、中国の経済政策それ自体を国際的に調和のとれたものに変質させていくのに寄与するであろう。GATT加盟にせよオリンピック開催にせよ、国際社会は中国にもう少し寛容であってしかるべきだと思う。

郵小平の時代におけるこの国の高成長は、なんらかの固有の改革デザインがあって、これにもとづいて実現されたものではない。毛時代の厳格な集権的統制の「紐」を解き、ある種の経済的「アナーキー」(無政府状態)をつくりだしたことによって、集権的統制の時代に誉屈していた農民、企業、地方のエネルギーを噴出させたことの帰結である。郵小平時代の指導部がなしたのは、この農民、企業、地方の自由な行動の軌跡を追認し、その向かうべき方途に「物質的刺激策」をもって対処したというにとどまる。しかし、この方式に国民はまことに適合的に行動したのであり、これが現在の中国の高成長の内実にほかならない。

2014年5月2日金曜日

コシヒカリ行列

このところ、スーパーからも米屋の店頭からも米が消えたといって、話題になっている。この国に米がないわけではなく、円滑に出回っていないということで、理由は農家と業者と消費者が、ためこんでいるからだという。ためこんでいない農家や業者や消費者もいるが、値上がりを見越してためこんでいる商人かおり、品薄と聞くと買いだめに走る消費者がいることは確かで、人がそのように動けば、店頭から米が消えもしよう。この現象を新聞、テレビが煽っている、という批判の声が出ているが、マスコミは、煽る気はない、事実を報じているだけで、それかマスコミの責務だ、と言うだろう。

けれども、大半のメディアは、鎮める方向ではなく、煽る方向で報じているように、私には思える。特にテレビは、例によって例のごとく、視聴率を上げるための表現以外のことは、まるで考えないかのようである。キャスターと呼ばれる人たちの発言の影響力は絶大である。キャスターが、輸入米には安全性に問題があるなどと二言言おうものなら、何百万人もの人が、輸入米を口にしたらたちまち体をこわすような気持になる。テレビはそれはどの力を持っている。

ロサンゼルス在住の邦人が。おいおい、それじゃ明け幕れカリフォルニア米を食っているオレは、とっくに死んでなきゃならないことになるぜ、と雑誌のエッセイに書いたぐらいでは、とても太刀打ちできない。マスコミの言う、平成米騒動だの、平成米パニックだのという言葉も、人々の不安を煽っているのではないか。まだ、騒動だの、パニックだのと言うほど切迫した状況ではないのではないか。

なるほど、米買いの行列が、ところによってできているようだが、そんなものは、騒動でもパニックでもあるまい。せいぜい、コシヒカリ行列、国産米行列といったところではないか。なに、テレビに煽られても、国民はそれほど馬鹿じゃない。一面では現実を肌で感じているから、コシヒカリ不足ぐらいでは逆上しない。

このところ米が出回らないといっても、他の食品は、これまでどおり豊富である。パンもあれば、ウドンもある。弁当屋さんや食堂からご飯が消えたわけではない。野菜も肉も調味料も、なんでもある。これだけふんだんになんでもあって、目下国産米だけが品薄なのである。

人は、コシヒカリが買えなきや。カリフォルニア米を買うのである。カリフォルニア米が買えなきや、タイ米を食うだろう。今に、安全性など誰も言わなくなる。なに、コシヒカリがなけりや、カリフォルニア米や豪州米がうまくなる。それが食えなきや、タイ米がうまくなる。そうなってもこの国が飽衣飽食の国であることには変わりがなく、国民はそれぐらいのことは知っている。パニックなどにはなるわけがない。

2014年4月17日木曜日

「生活習慣病」は克服できる

治療の詳細と合併症が発症してくる経過か時系列で記してありますから、読者自身の状況にあてはめれば、現在の自分はどの時点におり、「快楽習慣」を「改善」出来なければ、今後どのような経過をたどり、どのような治療か必要になるのかおおよその見当をつけることが出来ると思います。これらの症例をとおして、「生活習慣病」とは文字どおり生活習慣に直結した病気のことであり。その予防も治療も生活習慣の改善そのもののなかにあることを理解していただきたいと思います。

症例1 こまめに悪い習慣をチェック(男性・初診時七六歳)映画監督のAさんは一九八八年(七六歳)に血糖値が高くなって教育入院をしました。教育入院とは、糖尿病とはどのような病気かということを糖尿病の患者さんによく理解してもらうために、食事のとり方や運動のし方などを指導するためのものです。以来、朝食を摂ったあとは必ずスニーカーを履いて一時間の散歩(運動療法)に出かける、その後で仕事をする、という生活パターンを確立し、家にいる時ばかりでなく旅先でも忠実に実行しています。八六歳になった現在でもボケとは全く無縁、走れと言ったら本当に走り出してしまいそうな脚力を保持しています。

一九九九年三月に初めて舞台の演出をしました。舞台の初日が三月二五日、その翌日に定期検査のため来院しました。「今日は自信かないな」と言っていましたか、血糖値がいつもより五〇ほど高いことを告げられると、「舞台をやっていますとね、僕が甘党だということを知っているんで、女優さん達が競争で甘いものの差し入れをしてくれるんですよ。断わっちや悪いと思って、ついつい食べちゃったから。やっぱり饅頭の食べすぎはダメだな」と反省していました。そぱにいたマネージャーは「舞台の演出はとってもハードで朝から晩までですから。途中で倒れるんしやないかと心配しましたよ」と本当に心配していたようです。

そこでA監督は「昨日で終りましたからね、もう大丈夫。元の生活に戻りますから一ヶ月後には下げてきますよ」と宣言しました。一〇年以上にわたる関係ですから、宣言どおり実行してくると確信していましたが、はたして四月二七日の血糖値は正常値に戻っていました。「饅頭は食べないようにしたし、寝る前に何か食べたりするのもやめたんですよ。八七歳の誕生祝いのケーキの処分には困りましたよ。朝の散歩も気今いを入れてやったし」と満面笑み、本当に喜んでいました。

このような超人監督ですら、オーバーワークと過食、間食が続くと血糖値は高くなってしまいます。しかし彼はタラタラと過食、間食を続けることは絶対にしません。仕事に一区切りついたら生活習慣を見直し、悪い習慣はやめる、少なくともやめる努力は怠りません。「悪い習慣はやめ、生活にメリハリをつけなくてはいけない」という信念が世界最年長の現役監督の頭脳と肉体とを支えていることは間違いありません。「長い間続けてきた習慣だから」と悪い習慣を改めようとしない人は、これからの超高齢化社会で「ボケて長生きをし、その上足腰が弱って身の周りのこともできないやっかい者」になってしまう確率が高い、と言わざるをえません。