2012年12月25日火曜日

明治維新期から近代西洋医学が定着するまで

日本ではこれまでこのような体外受精など生殖技術の実施については、どこでどのような治療が行なわれ、どのくらいの成功率かなどほとんど公表されていない。不妊に悩む人々の口コミが多く、なかなか体系立った情報や体験者の声などが伝わりにくい状況にある。最近、『不妊』(晶文社)を翻訳出版した「フィンレージの会」が活動し始めたが、公けに改善要求など出す場もない。さらに法的な規制もなく、医師たちの自覚によって守られることを建て前とした日本産科婦人科学会の「見解」にゆだねられている。しかも学会では、これらの不妊治療に対する法的な規制には、反対の態度をとっているから、当分不妊カップルたちの混乱は続くであろう。

現在、出産は、限りなく医療に近い領域と考えられている。それは病院で、妊産婦やお産の終わったばかりの女性を、「患者さん」という言葉で扱っていることからも、容易にうなずくことができる。また妊産婦側でも、月一回検診に通って、白衣の医者に診てもらい、自分の状態を教えてもらうため、ほとんどの人々が自分を医療の必要な患者のようにみなしていることも事実である。

しかし、他方、健康に近い状態だからこそ、女性の身体に妊娠が成立することを考えれば、お産はまた医療から一番遠い領域にあることも事実であろう。いまのように、ほとんどの妊産婦が規則正しく病院へ通い、医療にきちんと管理されるようになったのは、産科医が助産者の主流となった一九六〇年代以降のことだが、しかしそうなるための精神的な下地は、もう明治の始まりから、いや黒船が来た時から準備されたものだといえる。

一八五三年、ペリーのひきいる黒船が来た時、「たった四はいで夜もねられず」と人々は大騒ぎしたが、とくに武士たちは驚いた。青い目、金色のひげをはやした大きな身体の男たち。自国の技術では木の船しか作れないのに、彼の国では、真黒い煙をはく大きな鋼鉄の船を作り、大砲を作り、それをトーンと打ってやって来たのだ。西欧の優位に人々が脱帽したのも無理はない。

実際に日本の医療が、これまでの東洋医学をすてドイツ医学を採用することに決めたのは、その一六年後の一八六九(明治二)年だが、すでに黒船がやって来た時に、日本の西欧への劣等感とあこがれ、追いつけ追い越せの精神は始まっていたといえる。こうして取り入れられることになる西洋医学は、実はちょうどヨーロッパでも、これまでの人体解剖の積み重ねによる形態解剖学的、あるいは解剖生理学的人体論とは一線を画するような、病原性細菌類による病因論の確立と、その原因となる病原性細菌類の大量発見への下地がどんどん整いつつあった。

それは病気の原因を、いわばヒポクラテスの想像した「えたいの知れないもやもやした気」(「庫気説」)から、はっきりと目に見える微細生物へと、ビジュアル化する大発見であり、これまでただ祈るしかなかった疫病への対策を、初歩的ではあったが人間の側からアタックする第一歩へとつながるものでもあった。


2012年9月3日月曜日

人間もまた含みをもつことによって「人格」なのである。

人間もまた含みをもつことによって「人格」なのである。ある青年は人と対談している際に、自分だけが知っていて相手か知らぬというプライヴェイトなものがないと感じたとき、自分をすっかりだしつくしてしまったと感じたとき、「まるで自分がもう自分でないような、自分固有の人格をなくしてしまった気がした」とのちに語っている。

ところでダイジェストするためには、言語的表現だけをたよりにアレンジしなければならぬので、ことばとなれない含蓄的生命は諸過されしたたってしまい、のこったものは水気のきれたむくろにすぎない。しかしそれでよいのかもしれない。凝固したくりかえしのなかでりるおいを切らしてしまった機械社会の人々は、もう生命的躍動的な心に感入できる心の持主ではなかろうから。

消化雑誌にもられた物語をいくつかつづけてよんでいると、気分かいらいらしてくる。こうした経験をもつ人はまれであるまい。なぜか。解答はいたって簡単である。私どもは展開のないラヴェルのボレaをきかされっづけていると、あの単調な旋律がいろいろの楽器に次から次へとうつされてつのってくるのとともに、言いようのないいらいらした不快さにこじれてくる。

それは消化雑誌の不快さと本質において少しもかおりない。単調なもの、こわばったもののくりかえしを強いられたとき、私どものなかに凝固的反復に反抗する弾性的生命があってこそ、あのいらだたしさか生まれるのではないだろうか。たえずながれ発展していく内的生命が、外から強いられた涸渇に対する怒りのうなり声、このうなり声がたまって「いらいら」の感情となったのである。

昼間機械のリズムに自分をあわせていた人は夜になって解放されて何をいとなむのであろうか。彼はあしたに耕して夕べに書をひもとく生活をいとなむ人とちがって、日がおちてから自分にもどるわけにいかない。なぜといって、もどるべき自分は自分でなくて、心の心けだあやつり人形だったからである。彼が夜のくるのをまちうけてすることは、このよりな無生命の自分をわすれること、そこで底ぬけさわぎ、ばか話、社交舞踏、堕落への耽溺がはじまる。

このいとなみの陽気さかるやかさは、しかし生命充実的な快活さとは似ても似つかない。ほんとうの快活とは、自分のからだにみなぎる生活感を人々とわけあう。たがいに協和音を生みだそうとするものだ、か、氏ぬけさわぎの方は相互了解をもとめてつきあっているのではなくて、自己忘却をのぞんでいるのである、したがってまずうごくこと、それが不可欠だから、そうそうしい急速調の踊りが流行する。キィキィと関節がなりだしそうな機械じかけの踊り、それは生のよろこびをふりまく村人の踊りとは根源的にちがう近代化された骸骨の踊りでもあろう。

ひからびた感情

いきたものは凝固と反復をきらい、つねに自分で自分をかえて進腱していく。だから行動とはもっともきびしい意味では自己変革的、外界変革的な行動でなければならぬ。それで内部からわきでる生命力にとぼしい人は、そとから自分をむちうつ刺激、かないような固定した状況におかれているというと、たとえば毎日流れ作業のベルトのまえでくりかえしの作業にはめこまれていたり、会社づとめの人のようにきまりきった事務で明けくれする日々がつづしていれば、彼のすることはもう生きた行動ではなくなって、心のない機械の反復運動と区別かつかなくなってしまう。数年以上オフィスにかよっているつとめ人は、どんなに彼がそれから眼をふさごうと、水気がとぼしくなった自分を知らずにすごすわけにはいかない。

あたたかい血がまわってやしなわれていたからだが、つめたい油で摩擦をふせいでいる金属体にどうやらかわってきた感じがするにちかいない。けれども金属の感じが自分でひやりとふれるうちはまだよいので、何年かたってすっかり金属にたりかわってしまえば、水気の減った感じももうなくたって、無感情の機械がそこにあるだけとなる。

無感情はごく手ぢかなところにもある。道をあるいていく運動についてみてもよい。歩行は一見すれば前進的な行動のようにとられがちだが、そう思いあやまってはならない。歩くことはロポットでもできるのである。それは外界に向って変革的にふみいっていく生命的行為とはゆかりのないただのくりかえしの運動で、そとの実在界に自分の存在を刻印するものではなく、ふわふわした位置の移動にすぎないのである。

私たちは歩きながら深くものを考えることかできない。歩行中の考えはいくら次々と追っていこうとつとめても、たちまち尻尾が消えてしまって、たまたまフト出現した断片的な考えか浮いたり沈んだりしていてさっぱりすすまないものである。つれだって歩いている人が、話がなにか要談にはいるときは、立ちどまって向きあって話しあいをはじめるし、まして意見にくいちがいがおこって争いともなれば、テクテク足をはこびながらの「無感情」ではどうしようもない。

人間は一つの運動をくりかえしているとひとりでに感情がひからびてくるしかけをもっている。その運動あるいはおこないか、はじまりにおいてはどんなに新鮮なものだったにせよ、「反復」という吸血鬼はかならす私どものなかから水気をうばって生命のぬけたむくろにひあからせずにはおかない。ところで機械化してゼソマイじかけの運動にかためられた人間は、ネジがゆるみ切るまでは不断に一つの動作をやっていなければならない。休むわけにはいかない。こういう反復運動に明けくれする人たちの手にダイジェスト雑誌がこのんでとられるのは流行のせいだとか、いそがしい身だからというわけだけではなくて、「せざるをえない」別のわけかあるのである。

芸術作品はその本性上。ことばで語られたものの背後の味が生命となっている。ことばの表現の布地の間からしみだしてくる含みのある心、それが芸術の生命であり、なにもかも表現しつくされてしまえばもののあじわいはなくなってしまう。

2012年8月1日水曜日

自由と平等はいわば政治の永遠の課題なのである。

民主党のいうように、さまざまな規制を加えていって社会的な平等を実現した場合はどうなるか。極端な貧困者や社会的な弱者は、国家の手によって救済されていく。一見平等な理想社会が出現するかに思えるが、それがいきすぎると個人のやる気や、自由奔放に夢を描いて行動するという活力が社会から失われていく。

そして何をするにも「お上」や「ビッグブラザー」の鼻息をうかがわねばならないという、息の詰まるような閉鎖的な社会が出現する。かつての日本の国鉄や、ソ連邦などは平等主義のなれの果ての姿であったろう。

われわれは「自由と平等」というふうに、簡単にこの両者を並べてひとまとめにしてしまいがちだが、実は重大な矛盾をはらんだ二つの概念なのである。完全な自由と完全な平等の共存はむずかしいという問題は、すでにギリシア時代に指摘されており、以来二〇〇〇年余を経た今日でも、矛盾を克服するための決定的な解決策は出ていない。自由と平等はいわば政治の永遠の課題なのである。

アメリカの共和党と民主党ぱ、この解決のいまだなされない問題を抱えたまま、いわば永遠の対立を続けている。社会政策は実施すべきである、いや実施すべきではないという論議をくり返し、政権をとった時には自分たちの信念を貫こうとし、野党に回った時には体を張ってでも時の政権に対抗する。

一見泥試合のように見える政争をくり返しながら、ある時には右に、そしてまたある時には左にと政治を動かしている。アメリカの政治は決して完成されたものではない。ギリシア時代以来の根源的な矛盾をかかえたまま、くり返される政争のなかで揺れ動き、現在進行形で走り続けるという未完の動体なのである。

2012年6月21日木曜日

プロサッカーリーグは若手選手育成に無策、無責任だ。

ユニバーシアードで男子サッカー代表が優勝を飾った。公開競技で行われた79年大会を除けば、過去13回で5度の優勝は断トツ(2位のウルグアイは2度)の成績で、2001年(隔年開催)からは3連覇の歴史もある。
ただしユニバーの好成績は、日本の大学生の置かれた恵まれた環境を考えれば当然でもある。欧州や南米に大卒のプロは、ほとんど存在しない。プロクラブに所属しながら、将来に備えて大学で勉強をしている選手はいても、大学チームに所属してプロを目指す選手は滅多にいないはずだ。そういう意味で、日本と韓国には特殊な事情がある。日本が3連覇した際に、決勝の相手はすべて韓国だったわけだが、いずれも大学生がプロの予備軍になっている稀有な国なのである。

日本の大学生は、頻繁にJクラブの胸を借りて試合が出来るし、大学選抜として遠征などの活動も少なくない。しかも日本が依然として学歴社会であることを考えれば、プロの勧誘を蹴って大学進学を選択する選手が目につくのも無理はない。

古い話になるが、メキシコ五輪(1968年)に銅メダルを獲得できた背景として「大半が大学出身選手で知性が高かった」と、当時の代表特別コーチだったデットマル・クラマー氏は語っている。大学進学は、技術と理論をバランス良く育てる意味でも有効なのかもしれない。

だが反面高校年代の有力選手たちが大学へと流れていくのは、Jクラブの育成組織やノウハウが遅れている。高校を卒業して、すぐにトップチームの戦力になれる選手は稀だ。ところがJクラブの大半は、下位リーグにセカンドチームを持たないし、だからといって即カテゴリーの異なるクラブに貸し出そうともしない。

結局彼らは2-3年間はベンチを温め、大学生の練習台となる。もちろん大学リーグを「温い」と言う声もあるが、同じ4年間でどちらが伸びるかは微妙だ。

少なくとも現在大学は、地域でも選抜チームを作り国際経験を積ませるなど、選手を発掘し伸ばしていくための工夫をしている。それに比べると、サテライトリーグも廃止されたプロ側は、同年代の育成に関して、あまりに無策、無責任に映る。

2012年6月13日水曜日

フジのえげつない囲い込み作戦に他局お手上げ

なでしこジャパンのW杯優勝で日本はすっかりお祭りムードだが、凱旋帰国したチームを追い掛け回しているマスコミからはフジテレビの“実弾攻撃"に不満タラタラだ。

フジは数千万円を使ってドイツW杯の放映権を獲得し、18日の決勝後半戦は朝5時からにもかかわらず、21.8%の高視聴率をマークした。これはすごい。だが、問題があって、それはフジの取材方法。札束を積んで主要選手やその家族を囲ってしまうため、アプローチができない他の新聞やテレビが頭を抱えているのだ。

「MF沢穂希の母・満壽子(まいこ)さんは16日にフランクフルト入りしましたが、フジは100万円近い飛行機代やホテル代などの現地滞在費を負担し、さらにパートを休む満壽子さんのために休業補償までしてあげたそうです。そこまで手厚くしてもらったら、当然、満壽子さんもフジに気を使ってしまう。実際、フジ以外のメディアではほとんど満壽子さんの肉声が聞けませんでした」(関係者)

フジは19日も帰国直後の選手11人と監督を2時間にわたって拘束し、夕方の「スーパーニュース」に生出演させた。もちろん、ギャラもはずんだのでは。一事が万事、フジがこの調子でなでしこジャパン周辺の面々を囲ってしまうため、他のメディアは手も足も出ないのだ。

「沢がサッカーを手ほどきしたのは兄の典郷さん。父の靖邦さんは15年以上前に蒸発してしまい、残された家族は経済的に苦労したそうです。こうしたプライベートの秘話を沢本人か満壽子さんに直接確認したいのに、フジが独占しているため難しい状況です」(マスコミ関係者)

“お台場はえげつない”という声が上がりそうだ。

2012年5月24日木曜日

金、インフレヘッジで再注目

最大の買い材料だったドル安の一服で上値の重い展開が続いている金相場。そんな中、「インフレに強い」という金の特徴に改めて注目が集まりつつある。

原油や食料価格の上昇で世界的にインフレ懸念が強まっているためだ。金の国際相場は昨年秋以降、米国の相次ぐ利下げによるドル相場の下落に連動する形で騰勢を強めてきた。しかし、米利下げは4月でひとまず打ち止めとの観測が広がり、ドルの下落トレンドにも歯止めがかかった。5月以降のニューヨーク先物相場(期近)は850―900ドル程度でもみ合う。

ただ、5月下旬には900ドルを超えて騰勢を強める場面もあった。ニューヨーク原油先物(期近)が1バレル130ドルを超え、インフレ懸念が改めて意識されたためだ。

インフレは世界的に進行している。ユーロ圏の5月の消費者物価上昇率は前年同月比3.6%とユーロ導入後の最高水準に再び上昇。米国も卸売物価上昇率が前年同月比で6%を超えている。新興国はより深刻で、ロシアやベトナムなどは2ケタの消費者物価上昇率を記録している。

日本はまだ物価上昇率が低いものの、インフレへの関心は高まっている。金の調査機関であるワールド・ゴールド・カウンシルは、日本の年収1000万円以上(世帯ベース)の金投資家を対象に定期的なアンケート調査を実施している。従来の調査では金を保有する理由として「無価値にならない」という回答が最多だったが、今年3月の調査では初めて「インフレに強い」という回答が上回った。

インフレに対抗するためのいわゆる「インフレヘッジ」の目的で投資する人が増えつつあるわけだ。インフレに強いのは実物資産に共通する点。しかし、無国籍通貨としての性格を持つ金はインフレ時に特に人気を集めやすい。「年後半に米国でインフレ懸念がいっそう強まる」とみる市場関係者は多く、金相場の動向にも影響を与えそうだ。

2012年5月15日火曜日

「明日も喋ろう」阪神支局襲撃伝える写真展始まる。

1987年5月、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)が散弾銃を持った男に襲われ、記者2人が殺傷された事件を伝える写真パネル展「明日も喋(しゃべ)ろう――言論への暴力に抗して」(朝日新聞大阪本社主催)が14日、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアム2階で始まった。10月8日まで。

言論・報道の自由を凶弾で封じようとした事件を思い起こし、暴力と闘うさまざまな営みについて知ってもらおうというねらい。襲撃事件の資料を朝日新聞社外で公開するのは初めて。

写真パネルは約40点。事件発生直後の阪神支局の様子や、亡くなった小尻知博記者(当時29)の腹部に無数の散弾が写るX線フィルム、「赤報隊」の犯行声明文をはじめ、小尻記者の母みよ子さん(79)が無念の思いを詠んだ俳句や、事件を語り継ぐ集会・演劇の様子などが並ぶ。

立命館大は小尻記者の母校。同ミュージアムの安斎育郎・名誉館長は「自分の価値観のためには暴力も許されるという主張を決して許してはならない」と話す。

2012年5月9日水曜日

人気集める整頓ビジネス

気が付けば、モノがあふれ雑然とする住まい。片付けようとしたものの、何を捨てて何を残したらいいのか。こんな経験をお持ちの人も多いだろう。こうした層を狙ったビジネスが人気を集めている。
関東や関西でハウスクリーニングなどを手掛けるベアーズ(東京・中央)には家財道具を片付けて欲しいとの依頼が今年に入り前年同期の3割増えている。基本料金は3時間1万1295円だ。処分する品が多いと、トラックの手配などで別途数十万円ほどのコストがかかるケースもあるという。

別のサービス会社は、2時間当たり2人のスタッフを派遣した時の料金を東京都内だと2万円程度を提示する。いずれにしても割安な料金とは言い難い。それでも片付けや収納のサービスが人気を集めているのは、東京の都心部でマンションが増えたことが背景にあるようだ。眺めのよい高層物件も少なくないが、その一方で収納スペースが限られることが片付けに悩む人を増やしている。
社会の高齢化も影響しているらしい。あるサービス会社は「お年寄りが亡くなった後、遺品の処分に困った親族が利用を申し込んでいる例がある」と打ち明ける。体力の衰えた高齢者だと大きくて重いものを処分しにくい。長い人生の中で思い出の品も増えるだけに、遺品は多くなる。

「そもそも人はモノを捨てられない生き物。我々への需要は消えることがない」と語るのが、トランクルームの運営会社だ。トランクルームにはビル内を間仕切りして収納スペースを確保したものと、屋外にコンテナを置いたり、専用の建屋を建てたりして場所を貸し出すものがある。東京・JR山手線内エリアではビル内のトランクルームの月額が3.3平方メートル当たり2万5000―3万円のケースが多い。

最近増えてきたのは、神奈川県西部など大都市の郊外にあるトランクルーム。3.3平方メートル換算で月1万3000円前後で貸し出しているケースもあり、東京都渋谷区などからも利用者があるという。このトランクルームでは24時間出し入れ可能だが「一度モノを預けた顧客は大半は2度と扉を開けることがない」(運営会社)。所有物を捨てられない人の利用が多い実態が浮き彫りとなっている。

「トランクルームを使うとこんなにお金がかかりますよ、と説明しています」と語るのは、収納カウンセリングを手掛けるゆとり工房(東京・豊島)。同社は専任カウンセラーが実際に家庭を訪れ、最長6カ月かけ家財道具の収納や処分の仕方を教えるサービスを手掛けている。指導料金は3LDK(70平方メートル)に4人が暮らす部屋の場合、総額18万円だ。

これも一見高い料金。ただ、家の中を整頓する術(すべ)を身に付けることは将来収納用品を買う手間がなくなるといった観点でノウハウを教える。これとは別に座学主体の収納講座(有料)も東京で開いている。こうした収納・片付けビジネスはマンション販売が振るわなくなったことで成長が鈍るという指摘もある。ただ、「収納や片付けの苦手な母親が、娘の結婚前に片付けサービスを利用して、2人でノウハウを学んでいる」(家事代行会社)というケースもあり、今後も新しい需要が拡大するのかもしれない。

2012年4月27日金曜日

「お荷物」輸入米に脚光、穀物需給の逼迫映す

みそや米菓の原料に使う、ミニマムアクセス(最低輸入量=MA)米の価格が上昇してきた。国産の加工用米の高騰と品薄で需要が増えたところに、コメ不足の地域へ向けてMA米在庫を供出する構想も浮上し、先行きの品不足感が強まった。安価な原料に頼ってきた加工業界には焦りの色が濃い。

農林水産省は加工業者向けの入札を毎月実施する。6月には2005年度輸入契約分の加重平均価格が11万2861円と前月に比べ8.6%上がった。入手可能な1番安い年度の比較では、1年前の03年度分より27%上昇した。

農林水産省が昨年から入札の予定価格を引き上げている。「国の財産である輸入米を安く売ることはできない」との立場から、MA米の価格を国産の特定米穀(規格外のコメ)並みに引き上げる方針だ。

特定米穀は稲作技術の発達などでここ数年、発生量が減少しており高値圏に張り付いたまま。対策として、加工業者はMA米の調達を増やした。昨年度までの2年間でみそ業界では使用量が2倍、米菓でも約2.2倍になった。

自給率39%の食料輸入大国にあって、コメは数少ない自給可能な農産物。外圧で輸入を義務づけられたMA米は需要がないため在庫が膨れあがり、ピーク時の2006年3月末には203万トンに達した。保管にかかるコストも問題視された。

このため農水省は輸入の米粉調製品から原料を切り替える業者には、MA米を安く販売して在庫処分に躍起になった。また06年度から飼料向けの販売を始め、今後も古い年度のコメは飼料向けに優先して供給していく方針。加工用に回る安価なMA米が減ることは必至だ。

今月の食料サミットで福田康夫首相は世界的な穀物需給の逼迫(ひっぱく)に対応し、MA米の在庫のうち約30万トンを放出する用意があることを表明した。品不足に拍車をかけそうで、「いつでも安く買える」と高をくくっていた加工業者には不安感が台頭している。

「もともと安く買ったものなのに、一方的な値上げはおかしい」と恨み節も聞こえる。ただ新興国の経済成長や人口増を背景に、安価な穀物が潤沢にあった平和な時代は終わりつつある。かつての「お荷物」の変質は、国際的な穀物需給の逼迫を物語る。

2012年4月23日月曜日

ファンドが仕掛けた天然ゴム高

自動車用タイヤなどに使う天然ゴムの相場が国内、海外ともに過去最高値圏で推移している。東京で起きた海外ファンドの仕掛け的な買いが、巡り巡って主産国タイの農家の原料売り渋りを呼び、供給不安をあおったためだ。

天然ゴム先物を扱う主要な商品取引所はアジアに2カ所ある。東京工業品取引所とシンガポール商品取引所(SICOM)だ。どちらもRSS3号が指標となっている。東工取市場は商品取引会社や海外ファンドなどが参加しており、流動性が高いのが特徴だ。SICOMは実需筋の参加が多いとされ、実際の需給環境を映しやすいとの見方がある。ただ、実際は同じ品目を上場しているため、裁定が働きやすく、どちらか一方がもう片方と大きく離れた相場を形成することは少ない。

今回の天然ゴム高騰を主導したのは東工取市場とされる。先高観を感じ取った海外ファンドが大量の買いを入れ、大幅上昇につながった。

海外ファンドが買いを入れた背景には原油価格の高騰がある。原油は代表的な国際商品であり上昇時には他商品への買いも入りやすい。また、天然ゴムの競合品である合成ゴムの原料でもあり、天然ゴムへの需要シフトが進むという連想を呼びやすい点で相場変動要因として影響力が大きい。

天然ゴムの相場は主産国タイが2月から4月に原料の減産期に入るため、毎年上昇しやすくなる。東京市場では買いが売りを上回るようになり、SICOM相場もこれに収束していく形で上昇していった。

これに派生して起こったのが産地農家の原料売りしぶりだ。実需ベースとされるSICOM市場でRSS3号相場が上昇したことにより、「天然ゴム原料の樹液も今後一段と高く売れる」との観測が広がった。

結果として減産期が明けても供給が増えない状況となり、東京では買いが加速。天然ゴムは東京とSICOMで高値サイクルを作り出したことになる。

ただ、農家はいつまでも売り渋りを続けていられるわけではなく、供給量は今後徐々に増える見通し。天然ゴム相場が足元で最高値圏でのもみ合いになっているのも、「そろそろ供給不安は払拭(ふっしょく)されるのでは」との市場の思惑が見え隠れする。アジアを舞台にした天然ゴム高騰劇はいったん終息を迎えつつあるようだ。

2012年4月18日水曜日

ガソリン最需要期、給油所の憂うつ

いよいよ夏休み到来。ガソリンは7月下旬から8月末にかけ、1年を通じての最需要期を迎える。ただ首都圏の給油所の店長たちの顔色は一様にさえない。価格の高騰を受けた買い控えで販売量が大幅に落ち込んでいるからだ。

石油情報センターが16日にまとめた14日時点のレギュラーの給油所店頭価格(全国平均)は1リットル181.3円。前年同時期に比べて3割も高い。都内で「1リットル184円」の看板を掲げる新日本石油系の給油所店長は「前年に比べて販売量が2割ほど減っている。夏休みも似たような状態が続くだろう」とあきらめ顔だ。

全国の給油所数は2007年度末時点で約4万4000店。1994年度末に比べ3割弱も減ったうえ、「7割が赤字」とも言われる。国内市場が縮小するなかで過当競争に陥っており、原油価格の高騰分を店頭価格に転嫁し切れていないからだ。

首都圏で4店を運営していた小規模の石油販売会社は今年3月と6月に相次ぎ店舗を閉めた。同社の社長は「続けていても赤字が増えるだけ。残りの2店舗もどうなるかわからない」と寂しげに語る。

原油高で「レギュラー200円」が目前に迫る一方、価格競争も激しくなっている。神奈川県の国道16号沿いの給油所は7月初めに182円に上げたレギュラー価格を、10日間で178円まで下げた。採算は厳しいが、店長は「販売量をある程度確保するためには仕方ない」と苦渋の表情だ。

ある石油業界関係者は「この夏場の最需要期の売れ行きが、今後の給油所の販売姿勢を左右する」と指摘する。消費者が高値を受け入れて量がそこそこ売れれば値下げは沈静化するが、大幅な販売減となれば値下げ競争で淘汰が加速する、との読みだ。給油所はどちらの道を選ぶのか。答えは遠からず出る。

2012年4月10日火曜日

楽観できない銅加工品メーカーの値上げ交渉

銅加工品メーカーは燃料や副資材費の上昇を理由に加工賃の引き上げ交渉を進めている。主原料の銅の価格は建値に連動するが、加工賃は顧客と交渉して決める。需要が伸び悩んでおり、交渉の行方は楽観できない。

日本伸銅協会(東京・台東)によると2007年度の銅加工品の生産量は99万8000トンと5年ぶりに100万トンを下回った。需要減の一因は銅加工品の製品価格がこの数年、高値で推移していることにある。銅製品より安い樹脂製品などに切り替える需要家の動きもあった。

銅板や銅管などの東京の問屋価格は現在、軒並み3年前の2倍程度。値決めの指標になる国内製錬会社の銅地金の建値が上昇しているためだ。銅地金の建値は7月中旬で月平均1トン95万円程度と最高値圏で推移している。南米の鉱山のストライキを受けて国際価格が上昇し、建値も高止まりしている。

高値に加えて、07年は改正建築基準法の施行による住宅着工減で住宅向けの出荷が伸び悩んだ。08年度も景気後退を受けて住宅着工は依然として回復しないまま。水回りの金具に使う黄銅棒やエアコンに使う銅管の生産量は伸び悩んでいる。

ここにきて携帯電話やパソコンなどの生産調整の影響も出始めている。電子部品に使うリン青銅や銅と亜鉛の合金である洋白板の問屋への受注は落ち込んでいる。

メーカーとしては加工賃の引き上げが浸透しないと収益が改善されないのも事実。ただ、北京五輪後の需要の冷え込みも懸念され、銅条や黄銅条を使う自動車も生産計画の見直しが進んでいる。メーカーが狙う加工賃の引き上げは一筋縄ではいかなそうだ。

2012年4月2日月曜日

原油相場上昇、政策のスキにつけ込むマネー

原油相場が青天井で上昇している。「投機悪玉論」がしきりに聞かれるが、マネーは値動きを増幅させているに過ぎない。原油が買われるのは理由があるからだ。問題は将来の供給不足懸念もさることながら、消費国に市況を冷やそうという姿勢が乏しい点にあるのではないか。マネーはそうした政策のスキにつけ込んでいるように思う。

消費国の政策で疑問に感じるのは国家備蓄放出に消極的なことだ。米国は同時テロ以降、戦略石油備蓄(SPR)の積み増しを進め、現在の在庫量は約7億バレルと過去最高水準だ。数%取り崩せば需給への影響はあるはずだし、取り崩しを示唆するだけでも市場心理への影響はあるはずだ。ブッシュ政権は備蓄積み増し停止を発表したが、放出には動こうとしない。

サウジアラビアを除く中東産油国の増産余力は乏しく、新興国の需要を抑えるのは難しい。米国や日本など先進国が原油高対策に動くべきなのに、備蓄確保にこだわり、かえって供給懸念を強めているようにみえる。

原油高の一因とされるドル安についても、米国がどこまで危機感を持っているか疑わしい。米国にとってドル安は輸入物価の上昇につながる半面、穀物や自動車の輸出促進につながる。貿易赤字縮小という側面も考えれば、ドル安をさほど深刻な危機と受け止めていないのかも知れない。

消費国の政治家からは、原油高について現状分析や責任転嫁の発言が目立つ。自ら本気で対策を示さない限り、市場になめられるばかりだ。