2015年3月10日火曜日

為替相場への三年ぶりの協調介入

アメリカの雑誌「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」の98年6月号に、日本の経済問題を話し合う各国蔵相代理会議の模様を伝える記事が載っていた。円・ドル関係は、95年を境に円安・ドル高に転じ、98年の春からは円か1ドル=130円から150円を窺うまでに急落、為替相場への3年ぶりの協調介入が行われることになった。

この介入については、過度の円安が中国人民元の切り下げを招き、再度のアジア通貨の混乱から世界恐慌にも波及しかねない、といった大義名分が掲げられていたが、多くの日本国民が承知しているように、実態は、日本政府の要請に、日本・アジアの株安のウォール街への波及を恐れたアメリカが、日本の恒久減税など、さまざまな条件を付けて応じたという性格の会議であった。

特集記事でさっそくこの会議を報じた同誌の誌面はすこぶる刺激的で、太平洋戦争の終戦時、昭和天皇がマッカーサー将軍を訪問した折の、あの並立写真が掲げられている。しかも記事には、日本は通貨危機に見舞われたアジア諸国と同じように、現在、経済的には占領状態に置かれており、サマーズこそはマッカーサー、これからはアメリカ財務省がGHQよろしく日本の銀行を監督する、といった状況が解説されていた。

クリントン政権の仮借のない円高攻勢から、3年も経ないうちに、日米間のマネー関係は急転回していた。パイプの細っていたジャパン・マネーの対米流人は、ふたたび増勢に転じ、アメリカが、経常赤字を埋めたその余剰資金をもって海外投資をさかんに行う、あの80年代のパターンもまた顕著に再現されている。

ここにいたる経緯をひとまずふり返っておこう。外為市場は、95年に入ってなお続く、クリントン政権の対決的な対日姿勢を眺めていた。自動車部品の購入増を求めるアメリカ側に「数値目標は受け入れられない」と、これを拒否する日本の姿勢は変わらず、アメリカ通商代表部は「交渉期限」の6月末に向けて、5月には通商法301条に基づく制裁を予告した。

高級車の対米輸出に100%という禁止的関税を課すというもので、日本の自動車メーカーにとっては大打撃である。「数量要求をのまなければ、為替で調整だ」という、クリントン政権を代弁するかのような在日外国人エコノミストの発言も見られた。

こうした状況のなかで円は急騰、年初には1ドル=100円程度だったものが、95年4月にはついに80円を割った。競争力がもっとも強いトヨタやソニーでも採算点を割りかねず、他の一般日本企業には対応不可能な水準である。アメリカは1ドル=50円を次の標的にしているといった風説も流れたが、しかし、当時のこうした評論は、ドルが対マルクでも下落して全面安の様相を示したことを無視したものであった。

そこで局面は急転換する。95年四月のG7は「相場の変動を秩序ある形で反転させることが望ましい」ことを声明し、これを受けて各国は協舞介入に入る。8月には、榊原(大蔵省国際金融局長・当時)とサマーズ(米財務副長官)の日米連携プレーともいわれた再度の大規模な介入が行われ、九月には1ドル=100円台を回復、その後もドルはジリ高となり97年には110円を超えた。

この急転の背景には、幾つかの事情が介在していた。一つには、アメリカが、対日通商要求を迫るカードとして、円高の限界を認識したということもあったであろう。95年早々、じつはクリントン政権の内部で、通商強硬派から金融・市場重視派へのパワー・シフトが進んでいた。この年の1月、金融市場に冷たいロイド・ベンツェン財務長官に代わって、ウォール街出身(ゴールドマン・サックス証券)のロバート・ルービ
ンがその椅子に着いた。

ルーピン新長官の初仕事は、さすがウォール街出身だけあって、総額500億ドルというメキシコへの金融支援策のとりまとめであった。82年から10余年を経て、メキシコでは94年の4月からふたたび波状的に資本逃避が起こり、ペソや証券市場が暴落を続けていた。アメリカは、メキシコとの「特殊な関係」にかんがみ、また自らもこれに巻き込まれる危険性を案じて、乏しい財政事情のなかから100億ドルを拠出し、180億ドルはIMFへの支出「命令」などでようやく支援策を組成した。こうした状況では強いドルこそが求められる。

もっとも、相対的ドル高へとアメリカの通貨政策を転換せしめた陰の主役は、じつはクウェートやサウジアラビアなど産油国の動向であった。アメリカとやはり「特殊関係」にあるこれら王制産油国さえ、ドルの暴落に耐えかね、石油取引価格の「ドル建て」離れの動きを見せていたのである。

こうなると、ドルの信認低下は致命的で、相対的に強いドル以外にアメリカの選択肢はなかった。ルーピンは、財務省長官に就任するにあたって、為替については自分だけが発言者だと明言して、通商強硬派を牽制し、また、毎週木曜日に個人的に朝食をともにするなど、グリーンスパンFRB議長との信頼醸成にも配慮を示していた。

日米自動車協議については、トップのトヨタを軸に、日本側メーカーが米国内で生産を拡大する、といった日本側の「自主計画」を評価する形で、まがりなりにも決着したため、対日圧力をかける根拠も薄れていた。こうした環境のなかでは、通商派のパワーは、相対的に低下せざるを得ず、結局、カンターは第二期クリントン政権には加わらなかったのである。

このようにして10年に及ぶ超勢的円高の時代は終わりを迎えることになった。降ってわいた相対的円安は、ドル資産の価値を少々戻し、輸出産業に幾ばくかの競争力を付与したかもしれないが、国内消費の低迷には何ら有効打とはなり得なかった。巨額の不良債権を抱え、長年の円高攻勢で体力を疲弊させた日本経済にとっては、むしろ株安と連動する悪循環を招く結果になってしまった。