人間もまた含みをもつことによって「人格」なのである。ある青年は人と対談している際に、自分だけが知っていて相手か知らぬというプライヴェイトなものがないと感じたとき、自分をすっかりだしつくしてしまったと感じたとき、「まるで自分がもう自分でないような、自分固有の人格をなくしてしまった気がした」とのちに語っている。
ところでダイジェストするためには、言語的表現だけをたよりにアレンジしなければならぬので、ことばとなれない含蓄的生命は諸過されしたたってしまい、のこったものは水気のきれたむくろにすぎない。しかしそれでよいのかもしれない。凝固したくりかえしのなかでりるおいを切らしてしまった機械社会の人々は、もう生命的躍動的な心に感入できる心の持主ではなかろうから。
消化雑誌にもられた物語をいくつかつづけてよんでいると、気分かいらいらしてくる。こうした経験をもつ人はまれであるまい。なぜか。解答はいたって簡単である。私どもは展開のないラヴェルのボレaをきかされっづけていると、あの単調な旋律がいろいろの楽器に次から次へとうつされてつのってくるのとともに、言いようのないいらいらした不快さにこじれてくる。
それは消化雑誌の不快さと本質において少しもかおりない。単調なもの、こわばったもののくりかえしを強いられたとき、私どものなかに凝固的反復に反抗する弾性的生命があってこそ、あのいらだたしさか生まれるのではないだろうか。たえずながれ発展していく内的生命が、外から強いられた涸渇に対する怒りのうなり声、このうなり声がたまって「いらいら」の感情となったのである。
昼間機械のリズムに自分をあわせていた人は夜になって解放されて何をいとなむのであろうか。彼はあしたに耕して夕べに書をひもとく生活をいとなむ人とちがって、日がおちてから自分にもどるわけにいかない。なぜといって、もどるべき自分は自分でなくて、心の心けだあやつり人形だったからである。彼が夜のくるのをまちうけてすることは、このよりな無生命の自分をわすれること、そこで底ぬけさわぎ、ばか話、社交舞踏、堕落への耽溺がはじまる。
このいとなみの陽気さかるやかさは、しかし生命充実的な快活さとは似ても似つかない。ほんとうの快活とは、自分のからだにみなぎる生活感を人々とわけあう。たがいに協和音を生みだそうとするものだ、か、氏ぬけさわぎの方は相互了解をもとめてつきあっているのではなくて、自己忘却をのぞんでいるのである、したがってまずうごくこと、それが不可欠だから、そうそうしい急速調の踊りが流行する。キィキィと関節がなりだしそうな機械じかけの踊り、それは生のよろこびをふりまく村人の踊りとは根源的にちがう近代化された骸骨の踊りでもあろう。