いきたものは凝固と反復をきらい、つねに自分で自分をかえて進腱していく。だから行動とはもっともきびしい意味では自己変革的、外界変革的な行動でなければならぬ。それで内部からわきでる生命力にとぼしい人は、そとから自分をむちうつ刺激、かないような固定した状況におかれているというと、たとえば毎日流れ作業のベルトのまえでくりかえしの作業にはめこまれていたり、会社づとめの人のようにきまりきった事務で明けくれする日々がつづしていれば、彼のすることはもう生きた行動ではなくなって、心のない機械の反復運動と区別かつかなくなってしまう。数年以上オフィスにかよっているつとめ人は、どんなに彼がそれから眼をふさごうと、水気がとぼしくなった自分を知らずにすごすわけにはいかない。
あたたかい血がまわってやしなわれていたからだが、つめたい油で摩擦をふせいでいる金属体にどうやらかわってきた感じがするにちかいない。けれども金属の感じが自分でひやりとふれるうちはまだよいので、何年かたってすっかり金属にたりかわってしまえば、水気の減った感じももうなくたって、無感情の機械がそこにあるだけとなる。
無感情はごく手ぢかなところにもある。道をあるいていく運動についてみてもよい。歩行は一見すれば前進的な行動のようにとられがちだが、そう思いあやまってはならない。歩くことはロポットでもできるのである。それは外界に向って変革的にふみいっていく生命的行為とはゆかりのないただのくりかえしの運動で、そとの実在界に自分の存在を刻印するものではなく、ふわふわした位置の移動にすぎないのである。
私たちは歩きながら深くものを考えることかできない。歩行中の考えはいくら次々と追っていこうとつとめても、たちまち尻尾が消えてしまって、たまたまフト出現した断片的な考えか浮いたり沈んだりしていてさっぱりすすまないものである。つれだって歩いている人が、話がなにか要談にはいるときは、立ちどまって向きあって話しあいをはじめるし、まして意見にくいちがいがおこって争いともなれば、テクテク足をはこびながらの「無感情」ではどうしようもない。
人間は一つの運動をくりかえしているとひとりでに感情がひからびてくるしかけをもっている。その運動あるいはおこないか、はじまりにおいてはどんなに新鮮なものだったにせよ、「反復」という吸血鬼はかならす私どものなかから水気をうばって生命のぬけたむくろにひあからせずにはおかない。ところで機械化してゼソマイじかけの運動にかためられた人間は、ネジがゆるみ切るまでは不断に一つの動作をやっていなければならない。休むわけにはいかない。こういう反復運動に明けくれする人たちの手にダイジェスト雑誌がこのんでとられるのは流行のせいだとか、いそがしい身だからというわけだけではなくて、「せざるをえない」別のわけかあるのである。
芸術作品はその本性上。ことばで語られたものの背後の味が生命となっている。ことばの表現の布地の間からしみだしてくる含みのある心、それが芸術の生命であり、なにもかも表現しつくされてしまえばもののあじわいはなくなってしまう。