少なくとも民事裁判では、いわゆる「応報」的な考え方は法律専門家の間では否定的に考えられています。民事責任のレベルについては、加害者は被害者に対して、その損害に応じた程度の賠償をすれば足り、それ以上を強いることは酷であるし、正当でもないとされています。
従って責任が甘くて済んだときも、これで責任は果たしましたと言いながら、本当に責任を果たしたのか疑問なケ-スがあまりにも多い。それが最近の司法に接していて感じることです。
そして、責任を取らなければならない側は、「甘い責任」を狙って、頭は下げるわ土下座はするわ、ということになりますが、それはあくまでも「責任逃れのため」という目的がいかにも見え透いているために、どうも釈然としないということになります。
「謝ったから責任を軽くしてやろう」というのも一つの理屈ではありますが、欺隔的な謝罪を清算してからでないと、結局は感情に流されてしまって元の木阿弥です。権利や正義が実現できなかった人は、法や裁判に失望します。逆に、それでうまいことやれた人々には、「なかなかうまい制度になってるんだな」と思わせることになります。
少年に妻子を殺された被害者と、少年法で社会復帰できた殺人者が、それぞれそんなことを感じるようなことがないよう祈るばかりですが、これは何も少年法の分野ばかりではありません。他にも「社会悪」というべきものが沢山あります。それらに立ち向かっていくための制度や手続を考えるべきではないでしょうか。
2016年2月9日火曜日
科学的という基準で判断する
たとえば時計を分解することは、再構成することよりずっとやさしいことである。それは、時計が故障していてもいなくても同じである。たとえ複数の時計を分解して部品毎に整理したとしても、やはり組み立てるのは難しい。これは、部品の間にあった関係が明確でなくなるからである。いいかえると、これらの関係がすべて偶然であるということになる。
このように科学的という基準では、すべての対象を要素に分解して、あらゆる要素間の関係を緩いものにしてしまうと同時に、対象の全体像ははっきりしなくなる。これは、部分を再集合しても全体にはならないという言い方とも関係がある。
べーターファージ本来の遺伝子とジフテリア毒素遺伝子をいったん分けると、両者の関係は偶然となってしまうので、それ以上の説明や意味付けは不要であるばかりでなく、かえって誤った理解さえもたらすことになるという見解がある。
この見解に従えば、ペーターファージや破傷風菌のプラスミドが毒素遺伝子を保有しているということが事実であっても、その事実に対する説明や解釈は、無用のものであると断言してもよいことになる。換言すれば、ファージやプラスミドと毒素遺伝子の結び付きは、説明を受け付けない「偶然」のものであるから、このような「偶然」の結び付きを「必然」のものとする説明は誤っているに違いないということになる。
このように科学的という基準では、すべての対象を要素に分解して、あらゆる要素間の関係を緩いものにしてしまうと同時に、対象の全体像ははっきりしなくなる。これは、部分を再集合しても全体にはならないという言い方とも関係がある。
べーターファージ本来の遺伝子とジフテリア毒素遺伝子をいったん分けると、両者の関係は偶然となってしまうので、それ以上の説明や意味付けは不要であるばかりでなく、かえって誤った理解さえもたらすことになるという見解がある。
この見解に従えば、ペーターファージや破傷風菌のプラスミドが毒素遺伝子を保有しているということが事実であっても、その事実に対する説明や解釈は、無用のものであると断言してもよいことになる。換言すれば、ファージやプラスミドと毒素遺伝子の結び付きは、説明を受け付けない「偶然」のものであるから、このような「偶然」の結び付きを「必然」のものとする説明は誤っているに違いないということになる。
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